国家としての本質的欠陥を考察するⅠ

一人の人間が(家族も含めてのことだが)人生を真剣に考えるに際しては、先ず今の日本はどういう国なのかという事、次いでその国でどういう生き方を選択すべきかという事・・、無論他国、他人のライフスタイルや、生きがいといったものを参考する事もあるし、歴史を紐解く場合もあるだろうが、どちらにしてもこの2点にポイントを置いて自分の生き方を考えるんだろうな、という事は納得できると思う。己が足元の情況を観察~熟慮して、将来を構想するという事に他ならない。

そうした事柄を考察した上で結局は、日本人として生きる上で、最も重要な前提となるのが教育、如何なる教育を受けられるかという所に帰結する事も理解できると思う。

つまり、自分の人生を考える場合は先ず、日本の教育理念~教育政策~教育体制がどいう情況にあるのかという事を洞察する必要があるという事なのだ。この事は生徒に関するだけでなく、教師の資質~養成という面も含めてのテーマと言える。レベルの低い教師の下で、レベルの高い生徒が育成されるはずないのは言うまでもない事だろう。

但し、現下の日本では、ここで言う教師としての質的レベルとは、具体的にどういう事なのかということを、改めて認識しておきたい。何故なら、戦後の教育を受けた日本人の殆どは、そう言いたくなるくらい人間に対する識別智が凋落しているからに他ならない。もし、「冗談じゃない、馬鹿にするな」と言う人が居れば訊きたい。なぜ、占領軍指定の教育政策を70年間もの間、改訂さえしようとしないまま放置して来たのかと。

詳細については、後ほど供述して行くつもりだが、一例を挙げれば、未だに『日教組』などという如何にも教職員組合を装って、日本人の精神性を凋落させたばかりか、日本の伝統的精神文化をも荒廃させるだけでしかなかった組織を未だに残し、受け入れているのか、考えて欲しい。

あなたの子女を、日教組の強い学校に我が子の将来の為と確信して入学させたいだろうか。日教組の組合員さえ、組み合い教師の居ない学校に入れたがると言うのに。

こうした観点に立って戦後の日本の教育を俯瞰する時、我が国の政治家や、文科省官僚、識者、またマスコミ・・は、国民の教育をどう考え、どのような展望を持って取り組んで来たのか、という事を考えざるを得ないのだ。

結論を言うなら、残念というか、憤懣やるかたないと言う他ない。戦後のエスタブリッシュメントと言われる人達は誰一人として、日本人の教育については何もやろうとしなかったという他ない。というより、日本人をして乞食根性の持ち主に育てる事しかして来なかったと、言って過言ではないだろう。

これは何も殊更に大げさに言っている事ではない。

世界でも有数の経済的に裕福国家になった後でさえ、今尚、経済成長~所得増、福祉、医療・・が、政治家の宣伝文句なのだから。ほんの半世紀前くらいまでは、貧しかった日本人の多くは、何もしないで国や他人から金を貰う事を潔しとしなかったのだ。それが今や、十分な資産がありながら年金だろうが、保険だろうが・・、貰えるものは何でも貰います、と言って恥じようとしなくなったのだ。

『全ては教育にある』とする私の見方は間違っているだろうか?

連休明けにはまた宜しく。

 

 

 

占領機関であるGHQは日本の憲法、政治、経済、社会制度、教育・・それらを支えた日本人の精神的、文化的分野まで踏み込んで日本人の背骨を抜き取るためとも言うべき大変革を行った結果なのだ。

当該国家、国民が存在するための基盤的指針である憲法にしても、GHQ=占領軍の作った憲法を未だに平和憲法などと言って奉っている。同じ敗戦国であるドイツやイタリーを観たらどうかと言いたい。

ところが、日本人の中には未だに、「押し付けられた憲法などと、とんでもない、あの憲法は日本人の手で作られた平和憲法のです』なんてことを言うのが居る。そもそも、国際法においはて占領下における憲法の設立は認められない、ということになっているではいか。ドイツは淡々とその通りに行い、占領解放後に自分たちの手で自国の憲法を設立したわけだ。

ともあれ、自国の防衛を他人頼みにしたいるばかりか、国家運営の基盤であり、国民が生きて行くための指針である憲法を他国民に創られたまま、70年間放置したままで来たこの国が真の独立国と評価される訳ないのである。

お判りだろうか、教育を考えるに当たっても、先ず基盤的指針である憲法を確立する必要があるのだ。日本人が日本民族のための指針、基盤哲学である憲法を設立するためには、国民共通の国家観が確立されることが前提である事も理解できると思う。さらにその前に、全日本人が一様に受け入れられる、日本独自の歴史観が確立される事が不可欠となる。歴史観と言うと、曲学阿世の徒の中には、時系列が違うとか、史実はこうではないか・・等と、口をはさむのが居るが、歴史とはその国の壮大な民族ストーリーなのだ。日本人の精神性、国民としての自覚が醸成察るものでなければ何の価値もないと言うこと認識する必要がある。

世界に関たる古代史、日本民族の独自性、精神性を秘めた史書である古事記日本書紀を何故教科書から消し去ったのか。あの物語を読みこなすだけの文部官僚、教職者が居なくなったという事かも知れない。

就中、日本のように、国民に近代史を全く教えない国が他にあったら教えて欲しい。

因みに、国際競争に勝ち抜き、世界から尊敬を集められるような日本人を育成するための重要な使命を持つ監督官庁、”文科省”は全省庁の中でどういう位置づけに在るのだろうか。

インドでは30人ほど居る大臣の中で、日本の文科省に当たる大臣は、5人しか居ないキャビネットスター(副総理格)の1人に位置づけられている事をご存じだろうか。そのくらい、国民を教育する事は重要な政策だと共通認識している証拠に他ならない。

振り返って、日本は・・。

人材を育成するための監督委官庁である文科省は3流官庁、大臣は3流大臣という扱いである事はご存じだと思う。

私だけかも知れないが、戦後の総理大臣誰一人、総理に値する人物など皆無だったと確信している。彼らの政策は『今だけ、自分だけ、金だけ』という戦前とは対極に在る日本人を作っただけではないか。

戦後の政治家や識者が、教育というものをどのように認識して来たか証明していると言えるではないか。

 2019.4.26