国家としての本質的欠陥を考察するⅡ

戦前は、一流の先生になるためには教職者を養成するための師範学校を卒業する必要があった。現在の筑波大学などはそのための大学、高等師範学校の1つで、東大、京大に次ぐ高い評価をされていた。教師とは、子供たちを学問分野で向上させるだけでなく、一流の人間になるべく人間教育をし得る存在であり、そのためのプロフェッショナルを養成するための学校だったのだ。だから、戦後のデモシカ先生などとは、根本的に教育者としての資質が違っていた訳だ。教職者は社会的のエリートであり、「先生」というだけで尊敬されくらいの権威があった。トップクラスの師範学校を卒業してなくとも、戦前の教育を受けた人たちが教職者として、教育現場に立っていた60年ほど前までは、教師が生徒を厳しく叱ったり、ビンタを喰らわせたからと言って父兄に怒鳴り込まれたり、教育委員会から叱責を受ける事などなかったのである。

だからこそ、先生たちの多くは誇りと使命感を持って教育に取り組んだし、父兄も感謝と畏敬の念を持って接するのが当たり前のことだった。自然に、子供達も親よりも尊敬するようになる訳だ。昭和20年代前半に生まれた人たちが、小中学校時代に教えられた先生の殆どは、大正時代生まれの人達だったから体罰など当たり前のことで、むしろ、自分の両親が、担当の先生に「もっと叱ってください」などと言っているのを、複雑な思いで聴いていた事を覚えている人も居るのではないだろうか。 

翻って、今の日本はどうだ。

マッカーサーが占領軍のトップとして日本に来た時、先ず取り組んだ事は「貧乏な島国の小柄な日本人が、心身共にどうしてあれほどまで強かったのか』という原因を調査、究明する事だった。調査の結果、全ては教育、人間教育に在るという結論を得たという。それは、究極的には潔さと、自己犠牲的精神性というものだったらしい。

論語朱子学など儒教の教本、その教えを日本流に咀嚼し、これに葉隠などの日本の古典を加味し、日本人共通の人間養成のための指針(本学=人間学)として確立している事が解明されたという事だ。

本学とは、如何にに生きるべきかを学ぶ人間学であり、対して法学、経済学、理学・・等の学問は、生計を立てるための末学として区別していた訳だ。今や、『本末転倒』という言葉は、ここに由来している事を知っている日本人も少なくなってしまった。

占領軍は日本から『本学』を残らず一掃し、二度と強い日本人を養成させることがない末学だけの教育を押し付け、今日にいたっているた訳だ。

その影響は一般大衆だけでなく、エスタブリッシュメントにまで及んでいる。日本を悪化させることにしかならないゆとり教育働き方改革などいった馬鹿げた事を得意げに提唱している一例を見ても判るだろう。

ネットのゲームに嵌まり込んで、まともな人生を送れなくなっている青少年が何十万人も居るこの現実。今や、学校~教師だけでなく家庭~両親を再教育しないとどうにもならなくなっているのだ。

労働人口が足らないのではなく、多くの若者が働かなくなっている現実を何故見ない振りをしているのか。まともな先生や親が居たとしても、社会全体が体罰を罪悪視する風潮にしてしまったため、20歳を過ぎても親の財産、年金をあてにする連中を正すすべがないのである。隣国にしてみたら「日本、放っておけば潰れるよ」という所だろう。

『人間教育不在』の恐ろしさが、解かるのではないだろうか。

個人的には、占領軍が新憲法にしてもそうだが、こういう政策を採った事はうなずける。しかし、70年間もの間政治家の誰一人、識者の誰一人、教職者の誰一人、日本人による日本人のための教育理念と、憲法を確立すべきだと提唱しなかった事に、アキレル他ないのだ。日本人を金だけ求める乞食根性の持ち主にして、未だに経済成長と、福祉しか言わない。ただ、これも日本国民の多くが政治家に対して、人間としての在り様よりも、兎に角金をばら撒いてくれ、と要求してきたからでもある。

占領軍に強いられるまま、明確な教育理念の無い中で、質を落とした先生のもとで立派な人間が育つはずないのだ。こう言うと『立派な人間でなんだ』などと、チャチを入れる輩が居ると思う。良いですか。立派な人間とは『人間にとって最も大切な事は、人間としての尊厳性を留意しながら生きる人間に他ならない。即ち、”自己犠牲的精神性”と”自己責任意識”に則って生きる人間』に他ならない。つい5~60年前までは、意味のない施しを受けなかった日本人の方が多かったくらいなのだ。今や、金があるくせに貰えるものは何でも貰う、という卑しい人間ばかりになってしまった。

尊厳性を指針にした人生から生まれる”徳性”という精神性に加えて、勉学(末学)、体育をレベル以上に成し遂げた人間こそが、真のエリートに他ならない。戦後の教育は、この真のエリートを養成できない形にしてしまった事に気が付くだろう。

但し、戦前の教育にも大きな欠点があった事を指摘しておく。

これは、欧米の植民地にされる事を恐れた明治維新政府が、富国強兵を最重要政策と置いたことによって、教育理念の根本に、国是に沿って一糸乱れず(=国家目標の遂行)学び、考え、生きる国民となるように育てるという目的があったためと言える。戦時下を考えれば判るだろう。画一化する事に価値を置いた国家戦略と言える。

ただ奇妙な事に、この欠点だけは様々な分野で今もなお続いている。恐らく、体制側にとってはその方が国民を管理しやすいからではないかと思う。

しかし、それがために日本人全体が、クリエイティブな能力を養成できず、損なわれて来た事のであるが、まさか支政治家や官僚が気が付かなかったはずないだろうに。

お判りだろうか、日本の欠陥とは1教育理念が確立されていない事、2民族のバックボーン、基盤である憲法が確立できていない事の2点に起因しているという事が。

話は変わるが、ずいぶん前から金儲けなど物質的価値を得るために努力する事を成功哲学などと称して、講演会やセミナー等が開かれているのをご存じだと思う。高い料金を取って、そういうセミナーを主催している人達に訊きたい。成功とは何のか、努力とは何か、物質的価値を手にする事が人生の成功なのか・・と。

次回は、今なお問題が続いている”虐め”について話してみるつもりだ。