『 漢気』という言葉は死語に?

今や、大の男が恥ずかしげもなく、「怖かった」などというセリフを吐く時代になってしまった。誰もが何事も穏便に・・という生き方が,賢いき方だとでも思っているらしい。そんな賢さは、上にズルがつく賢さでしかないのだが・・。

尤も、漢気があったとしても、酔っ払いに殴られそうな人を助けようとして、成行きで相手に手を出したりしたら、反対に助けた方が留置される羽目になりかねないというのでは、漢気を持った人間など居なくなって当然なのかも知れない。

警察にしてみれば楽でいいのだろうが・・。

しかし、こうした世情がごみ屋敷問題とか、騒音おばさん、違法投棄、児童虐待・・などの公共性を犯す問題をもたらしている事に気が付いているのだろうか。だから、近隣の誰一人、そうした行為を叱りつけたり、止めさせようともしない。何事も、我関せずが賢い生き方、という事なのだろう。

じゃあ、警察がこういう問題や当時者らを取り締まってくれるのかと言えば、決してそれはしない。極端な言い方をすれば、何もしてくれないというか、何もできないのだ。理由は判例が無い、法制化されていないからという事なのだ。反して、正しい事であっても「殴るのは駄目」という判例があるから、ペケという訳だ。

結果として、迷惑おじさんやおばさん、また迷惑企業が得をする可笑しな社会になってしまう事になる。あの危険なあおり運転をした人間が、警察に連行され場合どうなるか知っているだろうか。直接の被害が無ければ、概ね注意しただけで帰してしまうのが現実なのだ。これで、このあおり運転を止めるだろうか。怪我をさせた訳ではないし、具体的な被害もないから・・。降りて注意をして、喧嘩になって殴ったらこちらが取り締まられるんだ。

この問題のポイントは何処に在るか判るだろうか。

目に見える形で犯罪行為、また被害の情況が見えない以上、何もないという事なのだ。その異常な行為が被害者に及ぼす強烈な恐怖心とか、絶望感については全く勘案されないのだ。だから、ストーカ問題も、虐め問題も、児童虐待問題も目に見えた改善効果が出ないのである。改善効果どころか、どんどん情況は悪化している事が判るだろう。

この世が相対性を本質とした世界である以上、不条理性とか矛盾は避けられないにしても、おかしい事が余りにも多いと思わないだろうか。

警察、司法だけに限らず、是非を識別するための基準を『人間として如何に在るべきか』という観点に立つことなく、何事も法律を基準にして、機械的、合理的に処理するようになってから、こういう事例が増えて来たと言えるだろう。

こうした在り様が国家、国民にとって良い事なのだろうか、或いは美しい国の姿だとでも言うのだろうか。

本来、法律というものはどうしようもない連中を取り締まるための囲いであり、鞭なのだ。普通の人間は、法律以前に『人間の尊厳性に照らし合わせてどうなのか』という基準を持っている、それに指針として生きているということなのだ。ところが今やエスタブリッシュメントと言われる人達までもが、何かをして報道陣に取り囲まれると「法律は犯していない」などと、恥ずかしげもなく口にする。

因みに、50年くらい前までの日本には、余程のレアケースを除いてストーカー行為とか、あおり運転、ゴミ屋敷、騒音おばさん・・といった問題はなかったのだ。どうしてかと言えば、そんなことをすれば、正義感に満ちた元気のいいお兄さんや、小父さんたちに怒られるか、どやされる事が判っていたから。そして、その過程で暴力行為があったとしても、切っ掛けが正義の為であり、また情況も許容範囲であれば、警察も関知しようとしないし、世間もその場で収束させるのが当たり前だった。それが、人間としての、また社会としてのあるべき姿だと、誰もが認識していたからなのだ。

それを、現代は司法、警察がそのように変えたのか、政治家がそうしたのか判らないが、何であれ暴力をふるった方が悪い、としてしまったものだから、真の善悪の区別がつけられなくなってしまった。つまり、社会全体がズルイ方が得をするような変な事になっ訳だ。

こういう社会にして、一番楽な思いをするのは警察なのだから歓迎なのかも知れないが、そもそも今の日本は、子供の頃から殴られた事もなければ、喧嘩をしたこともない、良い家庭環境の元、勉強だけは優秀だった子供がキャリアの警察官、官僚、政治家・・、になっているのだから、広い意味での弱者の心情など窺い知れようはずないのだ。育った環境による人間性の違いとか、生来の埋めようのない格差、個々人の意識、価値観の違い、感情の微妙なヒダ・・、といった事が判る訳ないのである。

現代は、成績の優秀な子が『ガリ勉』などと言われて虐めれる事もないし、そもそも成績優秀な子供の家はレベル以上の経済力を有しているから、子供時代に経験すべきコンプレックスも、弱い同級生に対する思いやり・・などを経験しないまま、大人になっているケースが多い。そこには、意図的でなく人間性とか、情といった精神性が入り込む余地はなく、「法律さえ守っていれば良い」、「理屈さえ矛盾なく通れば良い」という人間観、社会観になりかねないのだ。問題は、人間として不完全と言うか、ねじれた価値観に在る自分に気が付かない、ということなのだ。

明治維新以降、教育の根底とされてきた本学(人間学)が消滅した事による弊害に他ならない。末学がいくら優秀であっても、本学を伴わない欠陥学問がいくら優秀であっても、人間の尊厳性を基盤に置いた人生(観)を確立する事はできないのだ。

そういった意味において『教育勅語』くらい、教育の本質、教育理念をコンパクトにまとめた文章は類例がないと断言できる。勿論、当時の言葉使いを現代風に直す必要はあるだろうが、個人的には、小学一年生頃から毎朝、この言葉を唱和させる事によって人間教育に大いに資するものがあると確信する次第だ。

 

体罰を考察する

 この相対性世界では法律は勿論、何事によらずパーフェクトという物事はあり得ない、という事はお判りだと思う。官僚特に司法関係者は、その事を明確に認識した上で国家、国民をリードし、また取り締まる必要があるのだ。

ところが、その実態を見ると、相対性を本質とするこの物質宇宙と、人間の本質性を理解できないまま、リードしようとしたり、取り締まろうとするから矛盾が噴き出すことになる。

この事を教育の分野で観てみよう。

インドの人間教育大臣であったMMジョシー師に子供の教育についてお訊きした時、掌を横に振って、「子供は犬や、猫と変わらない生き物なのだから言葉だけでは駄目で、やはり体罰で矯正しながら教育する必要があるのだ」と仰った事を記憶している。

恐らく、今の日本で文部大臣が同じことを言えば、世の女性や、教育評論家という無責任な連中、またマスコミに袋叩きに合うのだろう。それは彼らが人間の本質と、相対性世界を知らないからなのだが、それを指摘する漢(オトコ)も居なくなったのだ。

この問題は、最近話題の引きこもり問題に対する評論、報道においても似たような傾向にある事が判る。

引きこもりの人に対する理解とか、思いやりなどという無性帰任な言葉を吐いてしたり顔で居るのをTVでもめにするだろう。

”引きこもり”などというのは、明確な精神病に由来するものでない限り、単なる怠け者に過ぎないのだ。生来の弱いさ、臆病な気質はあったかも知れないが、親がそれに気づいて、子供の頃から矯正していれば、あれほどまで酷い情況にはなっているはずないのだ。いつごろから、この”引きこもり”という事例が顕著になり始めたか振り返ってみれば、国民所得の増加に比例している事が判るはずだ。

子供が家でゴロゴロしていても、経済的に負担できるだけの収入があるのを善い事にして、子供と向き合う面倒さを避けて来た親の責任以外の何者でもない。

何が、『引きこもりの人の心を理解する必要がある』だと、言いたい。

この世が相対性を本質としている世界である以上、何事であれパーフェクトはない、という事は繰り返し申し上げて来た。教育、躾けについてもその事に変わりはない。つまり、厳しく育てようが、やさしく甘く育てようが、どちらもパーフェクトはなく、欠点を避ける事はできないのだ。

ただ、これだけは言える。甘く優しい教育、躾けがもたらす欠陥よりも厳しさがもたらす欠陥の方が安全で、小さいという事を。

戦後の日本、特に1970年以降の日本は何事であれ、やさしさ、穏便さが至上のことのように勘違いして来たことが判るだろうか。体罰をここまで否定したのでは、不完全な子供をまともな大人に育てるための躾けも、教育もできなくなくなるという事が判らないらしい。

引きこもり問題だけでなく虐め問題、成人式の乱暴、俺おれ詐欺、少子化問題、働かない大人、財政問題・・、全て上記の一連の流れに、相応している事が判るのではないだろうか。

詰まる所、現下の日本の問題の殆どは、教育の在り様に起因していると言って過言ではないのだ。政治家が、本気で日本の将来を考えるなら財政問題や、経済成長問題ではなく人間教育も含めて教育を根本から考えなくてはならないと、理解する必要がある

人間という生き物が動物のレベルに留まっている以上、大人も子供も自分が第一であり、道理を訊く耳を持っていないが、叩かれるのが一番怖いというのが事実なのである。従って、自分よりも強いと思う人間の言う事は聴かざるを得ないのだ。つまり、怖い目に遭わせる事が、一番の薬になるという事でもある。そうした事を口にする人間を野蛮だとか、暴力的だと非難して、人間は話し合えば判るのだなどと、やさしさを主張する事は簡単だし、気分も良いだろう。

しかし、話し合って判り合えるなら親子同士の殺人事件も、虐め問題も、戦争も・・、とっくになくなっているはずではないか。

そして、そう言って”なーなー”で来た結果が、世界でも珍しい半独立国家、半社会主義的様相の国家、即ち現代の日本を創ったという事ではないだろうか。

次回は相対性世界の本質について語ってみよう。