国民をスポイルする政治

前回まで2回続けて、相対性世界とその本質性について敷衍して来た。

相対性世界の本質と、人間がそこで生まれ、生きて行く意義が完全でなくても理解できた方は、前回の最後の所で触れておいた、この相対性世界を生きていく上で最も大切な事は、何事であれバランス観(タイミングも含む)を持って生きる事だという点を忘れないようにしてほしい。

恐らく、自分が生きているこの世界の本質性と、そこに生まれ、生きる意義というかダルマ(正義、使命)を理解する度合いに比例して、自分の生き様、人生観、価値観、世界観に大きな変容が起き始める事を自覚すると思う。

締めくくりとして、相対性を超越(包含)したステージ(精神性、霊性)が、”真理”であり、釈迦やイエス、ジニャーニ(聖賢)の教えである事を申し上げておく。

 

これから先は、こうした角度からの勉強する事によって、それまでとは変わった世界観、例えば幸福、成功、平和、教育・・等について、どう解釈するようになったのか、といった事を具体的に論述して行きたいと思う。

さて、背景は判らないが、いつの頃からか我が国では硬貨の表だけ、或いは明暗の明、光の部分だけ・・と、人間(社会)にとって都合の良い面だけを、選択的(政治的)に取り出せる、取り出して提供すべきだというような要求が平気でされるようになった気がするのだ。ハッキリ言って、それを声高に主張しているのは、必死の努力して自分の力で生きようとしている人達ではなく、弱者~老人、社会保障需給者など~、社会(=他人)の恩恵で生きている人達に多いような気がするのだ。

戦後、人間教育を無くした上に、ポピュリズムを醸成するような政治を行ってきた結果なのだろう。人気取りの為以外に、何かそうする理由はあるのだろうか。

政治家に、官僚に、またそれを望む人たちに訊きたい。

非現実的な、光だけを欲しがる連中を納得させ続ける事ができると思っているのだろうか。できもしないことを、できると思わせるような政治を続けて国家、国民の将来は心配しえはないのかという事を。マスコミにも、財界にも、識者・・にも訊きたい。

世界の現実を観ると、世界の本質である相対性というものを見ていないとしか思えないのだ。ヒョットしたら、見えない振りをしているだけなのかも判らないが、一方では殆どの日本人が、ポピュリズム的政策を続けて行くべきと、主張しているようにも思えるのだ。

戦後の日本人は、『今だけ、自分だけ、金だけ』という乞食根性の持ち主に凋落してしまったのだろうかと、ぞっとする事が少なくない。どうであれ、遅かれ早かれ人間は大自然=天からそれ相応の落とし前をつけさせられる事になるのだろう。何故かって。“天地の理法”に逆らっているからと言えば判るだろうか?

人生における痛み、苦しみは、天の理法に逆らった時、その度合いがあるレベルを超した時に、現象化するのだ。『お前は間違った考え方をしている、生き方事をしている』と教えるために。

 

現代の日本人が留意しておかなければならない事は何事であれ、生まれて~生きて~死ぬ、という人生は、全て自分一人の責任の下に在る・・つまり、人生は100%自己責任なのだという思いに他ならない。

にもかかわらず、これも戦後の日本における傾向だが、生むのも、生まれるのも、育つのも、育てるのも、全部国が面倒見るのが当り前、といった風潮に成り果ててしまった。政治家も、大衆もその風潮に疑問すら持たないらしいのだ。これでは、人生とは自分自身が作り上げていくべきもの、などといった意識など持ち様がないだろう。

参議院選の目玉、与党を責める最大材料にしているらしい”200万円不足”問題だが、ああいう杜撰なことをした金融庁の罪はともあれ、そもそも、国が、政治家が、官僚が国民に言った事を全て本気にしていたのかと訊きたいくらいだ。もし、本気で信じていたとしたら、政治家が嘘をつくのは普通だし、マスコミの無責任報道もこれまでの歴史を振り返れば、驚くほどのことではない事が判るだろうに。

それは大衆の責任でもあるのだ。そういう美味しい事を言わないで、現実の厳しい事を言う政治家には票を入れないのだから・・。

そもそも、国が約束を守る、守らないなどという以前に、どういう情況になろうと、自分の人生は自分の手で生活できるようにしておくべきなのだ。

それが人生における根本原則ではないか。

自分の人生を守るのは自分だけなんだ。できないからって、当然のような顔をして国に要求する、またそういう事を売り込む政治家や、マスコミが居るが、そんなことを言うくらいなら、その前に高給取りのお前さんたちが、自分の資産を提供するべきじゃないのか、と言いたい。

無責任に、恰好好い事を言うだけなら誰にもできるんだ。

それにしても、この国の為政者は、国民をスポイルしてダメ人間にしまうつもりなのだろうか。まさか、自己利益、省益を守るためが真意なんてこ事はないだろうが・・。

認識されていないのだろう。為政者が、人間の本質性、また世界が持つ相対的本質性を無視して、理想論だけをプロパガンダして、国民にそれが実現できるかのように思い込ませる事は、大きな罪なのだという事を。

人間は苦楽伴う人生経験を通して、国家間の生存競争、人間の生存競争について、またそれに付随する不条理性と、矛盾について観察し深く考察する義務があるのだ。それがこの世界に生まれた学びの1つでもあるのだから。

暫く、事情があって休ませていただきます。

 

 

 

相対性世界を考察する2

 相対性世界を考察する2

 

ネガティブ性を本質とするこの世界

 先ず始めに、この世界は物質世界ゆえに時間と、空間によって制約されているという点について考察してみよう。

時間の制約とは、あらゆる物質、生命体は”死あるいは”崩壊、腐敗”そして消滅するという宿命から逃れられないという事。つまり、24時間の寿命しかないカゲロウも、数十億年間輝き続ける恒星も長短の違いはあるが、寿命を迎えて消滅する定めにあるのには変わりないという事なのだ。人間誰もが内包している生きる上での根源的な怖れは、この死に在る訳だ。日常、特に自覚している訳ではないが、何時か、何故かは判らないが、自分は間違いなく死ぬ、という事実に対する恐れを完全に拭い去る事は出来ない。

次に、空間による制約を具体的に言うなら、人間1人1人は孤立した存在であるという事。これもまた、死と同様、孤立した存在だと自覚することで、人間に根源的な恐れをもたらしている。『孤独を楽しもう』などと言っている識者も居るようだが、彼らに共通しているのは財力もあり、それ故に人が寄って来るもという点だろう。そうした人生が面倒になっただけのことなのだ。

この孤立に関して最も顕著な例を挙げてみると、母親は自分の分身であるにもかかわらず、生まれて間もない我が子が何故泣いているのか、正確には判らないという事が挙げられる。オムツが濡れた頃だとか、お腹がすいた頃・・というのは、母親や先輩から教えられたり、経験によって得た知識と言える。しかし、体の何処かに縫い針が刺さった痛み、或いは骨折した痛みで泣いていても、それは判らないのだ。さらに、子供が成長するに連れて、自分と我が子は判り合えないという事を、否応なく実感させられる事になる。それは子供も感じる事なのだ。つまり、遅かれ早かれ親子ともに、自分が孤立した存在であるという事実を自覚させられる事になる訳だ。

この事から『一心同体』という言葉は、恋愛関係にある二人が理想を言っているだけでしかない事が理解できるだろう。恋愛関係が永続する事はあり得ないのだから。

この2つの制約ゆえに、この世には真に自由な人間は存在し得ないという事が理解できると思う。権力や金で自由が実現できるなどと思っているのは、それを持っていない人間の夢でしかないのだ。

さらには、物であれ、概念であれ、それらの価値は時間や、情況(空間)によって変容する、またそれ故に比較性を持っているといった事も、相対性世界の特質と言える。それ故に、この世界には絶対善も、絶対悪もないのである。善悪の基準はその時々、また情況次第でクルクル変わるのだから・・。「幸、不幸あざなえる縄のごとし」という諺通りの世界、これまた人間の心そのものでもある事が判るだろう。我々の心、マインドは地獄(鬼)から天国(如来)まで、その時の情況次第で刻一刻、クルクルと変容しているという事でもある。

こうした特質を観る時、この世界はネガティブ性を基盤にしている世界らしい、という事が理解できるのではないだろうか。

因みに、昔から『性善説が正しいか、性悪説が正しいか』という議論がなされて来た事はご存じと思う。それを経験した方も少なくないだろう。

断言しておく。”性善説”は、非現実的な人間観、世界観であって、相対性世界では永続する平和も実現する事もなければ、国境がなくなって人類が一つになるというような事もないということを。もし、こうした相対性世界の本質が判っていれば、いずれEUは破綻せざるを得ないと予見できたし、先進各国の難民の受け入れには限界があり、これも行き詰まると、予測できたと思う。

難民問題に対して言うなら、そもそも、その国に生を受けたのは必然の結果であり、如何に悲惨な国であろうとも努力し、助け合いながら~使命を持った人は、国家のあり様の修正、革命に挑む事になるのだろう~、生き抜くというダルマ(正義、義務、使命)を持っているのである。

国を捨てるという事は、例えて言えば家族、家庭を捨てるという事なのだ。一時は苦労を免れるだろうが、他国で充実した人生を構築する事は先ず不可能と言える。逃避から何かが生まれる事はないのだ。

それができるなら、人間は自殺する事でこの辛く、苦しい人生から逃れられるように創られているはずなのだ。自殺は、人間にとって究極の逃避だからこそ、どの宗教も自殺を厳禁としているのである。相対性世界の特質と、そこに生まれ、生きる意義が理解できるに連れて、自殺を厳禁にしている意味が理解できて来ると思う。

この数年、中学生程度のガキが平気で自殺をする。そこにはその年まで育ててくれた両親に対する感謝の念の欠片もないと言える。虐められる位で自殺するなら、北朝鮮アフガニスタンやアフリカの子供はどうするのか。

それを、マスコミは「可哀想」しか言わない。識者も虐めを無くする方法だとか、警察も法律云々・・、などと、この人たちは本当に最高学府を出ているのかと、知的レベルを疑うような事しか言わない。

自殺が如何に愚かで、恐ろしい行為なのか、自分にどういった結果をもたらすのかという事を、今の日本人は誰も教えられなくなっている。そういう教育を受けていないから。こうした愚かさが、政界、財界、官界、マスコミ、教育界、一般庶民・・に及んでいる。それが、あらゆる分野で噴出している事にも、誰も気が付いていないのだ。

こうした観点に立った時、“可哀想”という情緒的な感覚だけで難民を受け入れるのではなく、その国を在るべき体制にしようと努力する(革命を志す)人たちに資金や武器、技術面での援助をするべきなのだ。尤も、欧米が難民問題に取り組むのは、全て自分たちが引き起こしたと承知しているからなんだ。日本にケツを向けるのは筋違いも甚だしい。さて、自分の家庭は家族が守り、進歩する義務があるように、国家は国民が守り、育てるべきなのだ。当然、多くの犠牲者も出るだろう。それでも、チャレンジし続ける事がその国(家庭)に生まれた人間が持つダルマなのだ。

誤解しないようにお断りしておくが、私はここで世界も、人類も・・、存在意義がないなどと、ニヒリズムな事を言っているのではない。むしろ、人類はこうしたネガティブ性を本質性とする世界に生まれ、自分に合った(概ね苦痛な)人生を歩む事に大きな意味があると言いたいのだ。

人間は、誰もが先ず、その事に気が付く必要があると言える。

しかし、キリスト教西洋合理主義をスタンダードとする現代世界においては、相対性世界の本質性と、そこに生まれ、生きる意義を理解し、気づく事は非常に困難と言わざるを得ない。何故なら、それを学ぶ事は、そのまま一神教的世界観を否定する事につながりかねないことになるから。

キリスト教に限らず、神仏と人間は別の存在と考えている現代の宗教において、上記の世界観を理解するのは難しいと言うよりも、学ぶことに精神的な抵抗感が強いのではないかと思う。

全ては、物質的世界観を本質とする世界人類故の必然と言う他ない。

人類が、次なる指針(キリスト教西洋合理主義に代わるスタンダード)を本気で求めるなら、超相対性世界観へたどり着く以外ないのだが・・。

さて、この世界で生きる意義を一言で言うなら、”学びの為”と言う以外にない。学びの答えは、出世するためでも、金持ちになるためでも、身体頑強になるため・・でもないという事はお断りしておく。

相対性を本質とするこの世は、学び(=修行)のために存在する世界ゆえに不条理性も、矛盾も、また強弱、貧富・・等の格差も、病気も、苦脳・・も、全て必然として存在するし、続くという事を理解し、受け入れる必要があるのだ。

相対性世界の本質を理解できて漸く真の世界観、価値観、人生観を確立する事ができると言っても過言ではない。

 

相対性の顕れ

特に、政治家や司法、官僚、有識者・・等、人々をリードする立場に在る人達が、人間という生き物の本質性、連れて人間社会は何事によらずプラス面と、それに相応するマイナス面、つまり対極性を有しているという相対性世界の特性を理解していないと、皮相的なものの観方になってしまい、ピントはずれな事を考えたり、言ったりすることになる。その結果、社会全体が混とん、また不透明な情況に陥る事になる。

皆さんは現代の世界、日本の情況を観てどう思われるだろうか。

本学(人間学)を学んだことさえない戦後日本のエスタブリッシュメント達は、押し並べてセレブな家庭に育ち、学校の成績も優秀だった為に、虐められる事も、叱られる事も、喧嘩をする事もないまま最高学府に到る人が殆どと言える。だから、生来頭が悪い子とか、貧しい家の子の悲しさ、虐められる子が持つ辛さ・・など、想像さえした事ないだろう。その人たちが試験に合格しただけで国家の主要な立ち位置に座り、国家を運営するのだから、ピントがずれたとしても仕方がないのだ。上から下、右から左、貧から富裕、強から弱・・と多様な人間が得するために、生存競争を繰り返すこの人間社会を運営して行くことができるか、どうか考えてみれば良いのだ。

ほんの50年ほど前までは日本全体が未だそれほど豊かでなかった。それはある意味、貧富の差が少なかったというか、貧しい家庭で育った子や、親を失い苦労した子供でも優秀であれば、超一流大学に合格するチャンスがあった。現代は、頭脳明晰に生まれた子供であっても、有名塾に通い、一流小、中学校に入学できるだけの経済的裏付けがなければ、超一流大学に合格する事は不可能とさえ言える社会になっている。

合格する子供の多くは貧しさに泣いた事も、謂われない虐めにあった事もない少年時代を送って来たため、他人を思いやる、忖度するという経験をする必要などなかった。一方、貧しいというだけで虐められたり、親の苦労を見て育った子は、否応なくそうした人生を通して、完全ではなくとも本学(人間学)を身に付ける事になった訳だ。ある意味、無意識のうちに相対性世界が持つ矛盾と、不条理性を学んで来たとも言える。

『苦労は買ってでもしろ』というコトワザの真意が判るではないか。

因みに、学力優秀で合格した高級官僚や学識者に見られる事に、社会は理論で動く(べき)と考えている人が多い気がする。これが極端な人は、理論的にエクスキューズ(言い訳)ができる事は基本的に正しい事と考えているらしい。

彼らには、人間社会は理論、理屈でなく、感情で動くもの、という人間の本質が観えないのである。さらに言うなら人間は、最終的には損得よりも、好きか嫌いで動くもの・・、という人間の本質性も承知しているとは言えない。しかし、そうしたレベルの人間洞察力では様々な価値観、世界観の持ち主が渦巻く人間社会を調整したり、リードする事などできるはずないのだ。

ただ、現代の日本は、そこまでしなくとも恙なく生きて行ける、世界でも稀有な国情に在るため、そうした事を自覚させられる情況にないというだけのことなのである。

人間は、突然この世界が持つ矛盾と、不条理性に直面した時、それを解決しようと苦悩したり、逃げたり、挑戦したり、恨んだり、憤ったり、逃げたり、反省したり、感謝したり・・を繰り返す事で成熟し、厚みを増すのだ。

しかし、それができないと言うよりも、させてくれない環境で育った人が、社会をリードする立場に着いている国家が日本と言えるだろう。

個人的見解だが、現下の日本に起きている様々な問題は、一にこれまで考察して来た教育・・人間教育の欠落がもたらした結果ではないかと考えざるを得ない。

因みに、チョット情況が変わっただけでブレるかと思うと、何が何でも暴力はいけないとか、法律を守る事が絶対というような薄っぺらで、硬直化した社会観が横行するようになる。

良いですか。社会には暴力が必要な場合があるし、また必要のないやさしさもあるのだ。この事を良く考えて欲しい。

例えば、法律を守る事は大切だが、法律とは本来人間社会、国民のためにあるもので、人間(社会)より法律が先に在る訳ではないのだ。その両者間に在る微妙さを埋めるのが人間力というものなのに、そうした点には全く意識を向けていないと言うより思いが行かないのが、現代の学識者、或いは為政者という事なのだろう。

2000年以上も前にイエスが仰っている事なのに・・。

 

体罰を法制化する』。誰が言いだしたのか知らないが、子供の教育、躾けに不可欠な体罰と、暴力を一緒くたにして論じるバカバカしさに気が付かないのだからあきれる他ない。あのゆとり教育もそうだが、こうした連中は本気で日本をオカシクしようとしているのではないか、と思わざるを得ない。

認識しておくべきは、体罰は子供を育てる上で不可欠な教育法の1つだという事と、その体罰を正しくできる教師や、親が居なくなったという事。連れて、それは背景を解明し、解決策を確立する必要があるという3点なのだ。要するに、体罰をする資格のない教師や、親が増えた背景を解明し、解決するための手段を確立する必要があるという事なのだ。教育勅語の価値と、過っての師範学校の価値を学んでみれば、すぐに答えを得られるはずなのだ。

新聞紙面を見ていると、これから益々こうした浅薄な世界観で社会制度を作り、法制化につなげてしまう傾向が強くなるのではないかと懸念する事を抑えられない。言わば、百円硬貨の表だけを求める愚かさに疑問を持たない、またそれが実現できると勘違いした狭く、浅い独善的な世界観の持ち主が増えて来るのではないかと思うのだ。

詰まる所、70年もの間、当該民族にとって最も重要な国防問題を考えずに来た戦後の日本人は、老若男女を問わず、平和ボケしてしまったために、自己責任意識(用心深さ、潔さ、人生は自分次第・・)も、自己犠牲的精神性(漢気、寛容、公共性・・)も希薄になってしまった、つまり、賢くさがなくなったという事でもある。

詐欺師にとって今ほど、鴨にしやすい日本人は居ないのではないかと思う事がある。

断言しておく。相対性を本質とする物質世界においては暴力であれ、逆の穏便さであれ、どちらも絶対善でも、絶対悪でもないという事を。

それは金銭であれ、権力、地位であれ、体力であれ、知識であれ・・、全てに潜在している対極性(相対性)であり、相対性世界の本質なのだ。医薬品は効能が高い分だけ副作用も高く、洗剤は洗浄力が高いほど有害性が高い・・、この世に流通している物質、概念・・全てこの相対性という本質から逃れる事はできないのである。

しかし、賢くない主婦や凡夫は、『政治家はプラス面だけ出すべきなのだ』と思い込んでいるらしい。

こうした衆生が多いからだろう。法律の許す(=誤魔化せる)範囲で、プラス面を大きくプロパガンダ(宣伝)する反面、マイナス面をゆる範囲で隠して商品を販売し、収益をあげているのが世界共通の企業の実態と言える。個人的見解ではあるが、製薬会社、化粧品会社、洗剤会社の御三家には、詐欺師をして「俺達よりも酷い嘘をつきまくって儲けているじゃないか」と、言いたくなるのではないかと思う事がある。

物質も、概念も、それが内包する善と悪は情況次第、条件次第でクルクル変わる事を繰り返しているのがこの世界の実態なのである。

相対性について判りやすい例えとして、ダイナマイトを採り上げてみよう。

ダイナマイトは、その爆発力であらゆる物を吹き飛ばしてしまう非常に危険な物質である。これを争い事や、戦争に使うからダイナマイトは危険な物質と決めつけけられる事になる。しかし、鉱山開発や建設に使った場合、労力の何十倍もの働きをする事で、人間社会に大いに貢献すことになる訳だ。

つまり、この百円硬貨の裏、表的な事相が、相対性世界の本質性なのである。

「それにしても、しつこく相対性をやるもんだな」と思われた方も居ると思う。しかし、『この世界、物質宇宙は相対性を本質とする世界』という事を認識していない事には、真っ当な世界観、人間観、社会観、価値観、人生観・・を確立する事ができないし、人間としての深みと、広がりを身に着けられないからに他ならない。

最後に、相対性世界を生きていく上でのポイント(留意点)を列挙しておこう。詳しくは、別の機会にさせていただくが、自分でも考えてみて欲しい。

1絶対善もなく、絶対悪もない故にこの世界を生きていく上で、バランス観(タイミングも含む)が最も大切と言える。 2さらに、バランスを採るための支点を探し、確立する事。但し、支点は常に動くため、これを確立する人が真の知恵者と言える。 3ベストはなく、ベターの世界。これは、永続する幸福がない事にもつながる。人生に表れる幸、不幸は 1対4の割合(?) 4価値は常に変動する(有為転変、禍福あざなえる縄のごとし) 5人生全てが学びのために在る(これに気が付く事が進化の第一歩)。

今週はここまで。

相対性世界を考察する 1

 

民族の本質性が狂い始めた日本

 

この物質宇宙は、『相対性』を本質としている事をご存じの方は少なくないと思う。

つまり、相対的を本質とする世界で我々人類は生まれ、生き、死ぬという生命活動を繰り返している訳だ。そして、母なる地球と呼ばれている事もご存じだと思う。だから、自分の“人生を自覚して生きる”ためには、その前提としてこの世界、人類社会の本質性である物質的相対性と、その本質性故の出来事、諸現象を認識することが不可欠になるという事は理解できるだろう。

しかし、現実にそれを自覚して生きている人間が居るのかと言えば、稀だろう。特にそれを自覚していなくとも、生きるだけなら損得勘定だけで折々の情況に対処しながら生きて行く事はできるのだから。

しかしながら、自覚して人生行路を歩むか、しないで生きるかという違いには、とてつもなく大きなものがあるのだが、物質的世界観だけで生きている人(殆どの人がそうだが)にとっては意味の無い、理解不能な事かも知れない。

但し、政治家や官僚(司法関係も含めて)、有識者オピニオンリーダー・・など人々をリードし、責任を伴う立場に在る人、~ああ、特に宗教家を自覚する人にとっては~相対性世界の本質性を理解、認識した上で物事を観て、考える事が不可欠だと言っておく。言う前もない事だが、上記のような事は、学校の授業では無論、今や宗教でさえ教えてくるものではない。しかし、人類が生きるてい舞台であるこの世界の本質性を考察し、深く理解する事は、そのまま世界観、価値観、又人生観に深みと、広がりがもたらし、洞察力をもたらすという事は理解できるのではないだろうか。

例えば、その事を理解し、洞察力を高めた人にしてみると、先般あった保釈した容疑者に逃げられるような事をもたらした対応の仕方、さらに保釈者の増加傾向、あおり運転者に対して注意だけで帰す処理、ゴミ屋敷、釣り用のタラップを勝手に作って御咎めなし、さらには所有者不明の家や、車の処分ができない・・などといったバカバカしい事は一生に付することだろう。日本の伝統的文化に自信がないのか、キリスト教価値観を中途半端に取り入れて偏った社会制度を構築して顧みようともしない。

ゆとり教育に似たような働き方改革、女性の社会進出、親の子への体罰防止法・・、何を考えているかとしか言いようがない。欧米の文明を取り入れるのを良しとするケースもあるだろうが、民族が培ってきた精神性、精神文化まで変えてどうしようと言うのか。何をする場合も、為政者は本気で考えるべきだろう。

考えてるだって?  例として上記に挙げた3点を見ただけで、とても日本(民族)の将来を考えているなどとは言えまい。

 

キリスト教西洋合理主義の問題点

死刑廃止論も含めてこうした傾向は、キリスト教神学をベースとする性善説を基本においた世界観、人間観から生まれて来たものと言える。言っておくが、今のキリスト教の基盤とも言えるキリスト教神学は、イエスの御教えとは全く異なる哲学者が言った哲学に過ぎないのだ。そんなことは、歴史を見れば誰にでも解かる事ではないか。

しかし、アウグスツヌスから1500年、トマスアクイナスから700年、この哲学を取り入れた世界のキリスト教指導者は、イエスの御教えを自分たちに都合よく変容し、”イエスの教えもどき”を人々に教え続けて来たのだ。史実にもあるように、それに異論を唱えたり、反対する人たちを火焙りにしたり、拷問したりして殺戮して来た歴史を今さら否定はしないのだろう。個人的には、イエスの教えをゆがめた代表的な事例が、「蒔いた種は蒔いた者が刈り取りなさい」という御言葉(の解釈)を無くしてしまった事ではないかと思っている。リインカネーション(転生輪廻)の本質性をこの言葉を比喩にして教えているのに、リインカネーションをない事にしてしまったのだ。このため、“イエスの救い”の意味は現世利益的なものに凋落してしまった。イエスの『救い』とは、この相対性世界からの離脱、或いは颯太性を超越を意味する御言葉なのに金儲けや、出世や、病気直しの意味になってしまったのだから大変だ。

仏陀も、イエスも金銭や、出世とは対極にある生き方をされた方ではないか。そのお二人に、未だに物質的価値を祈願するキリスト者。或いは、自分の協会ではそれができると宣伝する神父や牧師、オカシイと思わないかね。

キリストとは個人名ではなく、キリスト意識(悟り)を指す言葉なのだ。丁度、仏教の仏陀と同じで、その霊的ステージ到達したイエス故に、イエスキリストとなった訳だ。

神学は、イエスがなくなって500年も経ってからアウグスツヌスという神学者が体系化した哲学を参考にして、トマスアクイナスという13世紀頃の哲学者が体系化したスコラ哲学と考えても間違いではあるまい。

とは言え、キリスト教に限らず、仏教もイスラム教も・・、どの宗教も例外なく、宗祖の折角の教え、御言葉が後世の人達、特に後継者や、権力者によって都合よく変えられている事に変わりはない。それが極端か、どうかだけの違いでしかないのだ。そもそも、宗祖の教えを正しく受け継いで来たのであれば、あんなにいくつもの宗派に分派するはずないだろう。況してや、同じ宗祖を奉りながら戦争をして殺し合うというのだから、何をかいわんやと言う他ない。

ここでの本題とは違うが、世界の宗教指導者は、心から宗教と、宗教家としての自己の在り様を考えるべきなのだ。

神学以降のキリスト教が行ってきた歴史を振り返っただけで、この宗教の何処に性善説を主張する論拠があるのか判らない。

後程、論述したいと思ってはいるが(約束はできないが)、この点での結論を言うなら、物質世界は相対性を本質とする世界故に、人間社会は”性悪説を基本”とする世界なのだと、言っておく。もし、為政者がその反対の性善説でを前提にして政治(防衛、福祉、教育、司法、行政・・)を行えば、どうなると思うか。

詰まる所、学識経験者でありながら、自分達が生きているこの世界の本質性を全く理解できていないから、こういうオカシな事を平気でする事になるのだ。

マー、宗教をこき下ろすのはこの位にしておくが、決して、仏陀やイエス、お二人の生き様と、その御教えの素晴らしさを否定しているのではない事をお断りしておく。どうせ学ぶなら、本物を探すべきだろう。

 

 戦後教育がもたらした弊害

因みに、戦前までの日本の教育は『国家、そして人間の本質性』に対する洞察を元に(教育)理念を確立それを指針としていた事がお判りになると思う。先人は、学校(教師)とは学力だけでなく、”人間力”をも培う場であるべきと認識していたのだ。そういった観点から『教育勅語』を精査すると、言葉遣いなどは別にして、その内容は他に類を見ない高尚で、密度の高い教育指針である事が窺える。日教組の連中は、この内容が理解できないためだろう、反対を連呼している自分のオカシさを認識で気なのだろう。

否、彼ら以上にアメリカの言うがまま、世界に冠たるその教育理念を放棄したばかりか、70年経った今なお改めようとしない戦後の政治家や、官僚、識者の責任は大きいと言わざるを得ない。その戦後教育の結果が、特に21世紀に入って以降、上から下まで国の金を喰らおうとして恥じない国民、ゴミ屋敷、幼児の虐待、ストーカー、あおり運転・・等々オカシな社会を作ったという事ではないだろうか。

一言で言えば、今や殆どの国民が『今だけ、自分だけ、損得だけ』という生き方をする事に恥ずかしいと思わなくなった。つい、素十年前までの日本人にはなかったし精神性といえる。こうした結果、勉強はできても本質的には浅く、卑しく、薄っぺらな考え方しかできない人間ばかりを作ってしうことになったのが、戦後の学校教育なのだろう。

こんな人間性の持ち主が、難しい試験に合格したというだけで社会をリードする立場に座る訳だから、社会全体が可笑しな方向に向かい始めたとしても、不思議な事ではあないのだ。

それが端的に表れている人達として官僚、特に教育関係者も含めて、地方自治体の公務員、裁判官、検事などの司法関係者、また社会の木鐸を標榜するマスコミ関係者の体たらくを挙げざるを得ないのだ。恐らく、誰一人としてその自覚はないのだろうが・・。

中でも、人を裁くという謂わば、神の代行者とも言える司法関係者がオカシクなり始めたのだから、社会がゆがみ始めた流れに歯止めがなくなったと思わざるを得ない。昨今のオカシな判決、検事の在り様・・(弁護士は昔からそう)。そして、裁判員裁判制度などはその典型的な表れと思われる。一般の素人に神の代行をさせようとしている愚かさに気がついていない証拠と言える。人が、人を裁くという事は、本来誰もがすべきことではないのだ。しかし、それでは安全で、調和のある人間社会が構成、維持できないから、刑罰を前提にした法律を専門的に勉強し、難しい試験をクリアした人間をその任に当たらせているのだ。もし、司法専門家がその機能を果たせなくなったと言うのであれば、素人を宛てにするのではなく、司法試験、また制度の在り様を検討して、改革すべきなのだ。個人的には、人間の成熟度を測るテストを取り入れるべだと思う。尤も、これはエスタブリシュメント全般にすべき事だろう。

また、官僚制度全般に言える事だが、官僚制度ができて140年近く経っているのだから、制度疲労、歪みが出て来るのは当たり前なのだ。無論、二院制度にも言える事だ。特に、戦後の教育制度は、前述したように人間力を養成するための教育理念も体制も一掃してしまったため、余計にこうした歪みを作る要因になったのだろう。

然るに、『元を絶たねば駄目』という言葉があるにもかかわらず、それを言い出すと自分に風当たりが来るとでも計算するためだろう、実効性のを伴わない当たり障りのない策ばかり打とうとしているのが丸見えなのだ。小手先の弥縫策をいくら講じようとも傷口は広がるばかりなのだが、自己責任意識、自己犠牲的精神性という人間としての尊厳性を有した人材が居なくなったという事かも知れない。

『粗にして野だが卑ではない』と言った先輩官僚の言葉を噛みしめて欲しい。

こうした狂いと言うか、歪みに気が付く(洞察する)一助になればという事で、暫くは、相対性(物質)世界の本質性と、それがもたらす現象と言うか、必然的な事柄について考察してみることにした。

この事を理解するだけで、今まで自分が正しいと思って来た概念、或いは哲学が、少なからずそうではないらしいという事に気づくだろう。

 

相対性を構成する3大要素

以下、相対性世界が持つ本質性と、その本質性がもたらす現象と言うか、必然性について論証してみたい。

1その前に、相対性を構成している3大要素として①物質世界であること ②時間と空間に制約されている世界である事 ③如何なる事にも絶対はなく、また対極性、比較性を有している世界であるという3点を認識しておいてほしい。

そして、②の制約がある故に、人間は誰一人として真の自由を体現し得ないという事もが理解できると思う。世界一の金持ちであろうと、世界一の権力者、また帝王であろうと、それは厳然たる事実なのだ。

2相対性世界、即ち物質世界においては永遠の命、も若さも、幸福も、また永続する世界平和も実現する事はできないという事。

3 次いで、この本質性ある故に我々人間は、無意識の内に学ぶ事を強いられている訳だが、具体的に我々の人生の在り様にどう影響し、どういう体験をさせられるのか、という点に敷衍してみる事にする。

 次回以降、上記の3点について具体的に論証して行きたいと思う。

 

『 漢気』という言葉は死語に?

今や、大の男が恥ずかしげもなく、「怖かった」などというセリフを吐く時代になってしまった。誰もが何事も穏便に・・という生き方が,賢いき方だとでも思っているらしい。そんな賢さは、上にズルがつく賢さでしかないのだが・・。

尤も、漢気があったとしても、酔っ払いに殴られそうな人を助けようとして、成行きで相手に手を出したりしたら、反対に助けた方が留置される羽目になりかねないというのでは、漢気を持った人間など居なくなって当然なのかも知れない。

警察にしてみれば楽でいいのだろうが・・。

しかし、こうした世情がごみ屋敷問題とか、騒音おばさん、違法投棄、児童虐待・・などの公共性を犯す問題をもたらしている事に気が付いているのだろうか。だから、近隣の誰一人、そうした行為を叱りつけたり、止めさせようともしない。何事も、我関せずが賢い生き方、という事なのだろう。

じゃあ、警察がこういう問題や当時者らを取り締まってくれるのかと言えば、決してそれはしない。極端な言い方をすれば、何もしてくれないというか、何もできないのだ。理由は判例が無い、法制化されていないからという事なのだ。反して、正しい事であっても「殴るのは駄目」という判例があるから、ペケという訳だ。

結果として、迷惑おじさんやおばさん、また迷惑企業が得をする可笑しな社会になってしまう事になる。あの危険なあおり運転をした人間が、警察に連行され場合どうなるか知っているだろうか。直接の被害が無ければ、概ね注意しただけで帰してしまうのが現実なのだ。これで、このあおり運転を止めるだろうか。怪我をさせた訳ではないし、具体的な被害もないから・・。降りて注意をして、喧嘩になって殴ったらこちらが取り締まられるんだ。

この問題のポイントは何処に在るか判るだろうか。

目に見える形で犯罪行為、また被害の情況が見えない以上、何もないという事なのだ。その異常な行為が被害者に及ぼす強烈な恐怖心とか、絶望感については全く勘案されないのだ。だから、ストーカ問題も、虐め問題も、児童虐待問題も目に見えた改善効果が出ないのである。改善効果どころか、どんどん情況は悪化している事が判るだろう。

この世が相対性を本質とした世界である以上、不条理性とか矛盾は避けられないにしても、おかしい事が余りにも多いと思わないだろうか。

警察、司法だけに限らず、是非を識別するための基準を『人間として如何に在るべきか』という観点に立つことなく、何事も法律を基準にして、機械的、合理的に処理するようになってから、こういう事例が増えて来たと言えるだろう。

こうした在り様が国家、国民にとって良い事なのだろうか、或いは美しい国の姿だとでも言うのだろうか。

本来、法律というものはどうしようもない連中を取り締まるための囲いであり、鞭なのだ。普通の人間は、法律以前に『人間の尊厳性に照らし合わせてどうなのか』という基準を持っている、それに指針として生きているということなのだ。ところが今やエスタブリッシュメントと言われる人達までもが、何かをして報道陣に取り囲まれると「法律は犯していない」などと、恥ずかしげもなく口にする。

因みに、50年くらい前までの日本には、余程のレアケースを除いてストーカー行為とか、あおり運転、ゴミ屋敷、騒音おばさん・・といった問題はなかったのだ。どうしてかと言えば、そんなことをすれば、正義感に満ちた元気のいいお兄さんや、小父さんたちに怒られるか、どやされる事が判っていたから。そして、その過程で暴力行為があったとしても、切っ掛けが正義の為であり、また情況も許容範囲であれば、警察も関知しようとしないし、世間もその場で収束させるのが当たり前だった。それが、人間としての、また社会としてのあるべき姿だと、誰もが認識していたからなのだ。

それを、現代は司法、警察がそのように変えたのか、政治家がそうしたのか判らないが、何であれ暴力をふるった方が悪い、としてしまったものだから、真の善悪の区別がつけられなくなってしまった。つまり、社会全体がズルイ方が得をするような変な事になっ訳だ。

こういう社会にして、一番楽な思いをするのは警察なのだから歓迎なのかも知れないが、そもそも今の日本は、子供の頃から殴られた事もなければ、喧嘩をしたこともない、良い家庭環境の元、勉強だけは優秀だった子供がキャリアの警察官、官僚、政治家・・、になっているのだから、広い意味での弱者の心情など窺い知れようはずないのだ。育った環境による人間性の違いとか、生来の埋めようのない格差、個々人の意識、価値観の違い、感情の微妙なヒダ・・、といった事が判る訳ないのである。

現代は、成績の優秀な子が『ガリ勉』などと言われて虐めれる事もないし、そもそも成績優秀な子供の家はレベル以上の経済力を有しているから、子供時代に経験すべきコンプレックスも、弱い同級生に対する思いやり・・などを経験しないまま、大人になっているケースが多い。そこには、意図的でなく人間性とか、情といった精神性が入り込む余地はなく、「法律さえ守っていれば良い」、「理屈さえ矛盾なく通れば良い」という人間観、社会観になりかねないのだ。問題は、人間として不完全と言うか、ねじれた価値観に在る自分に気が付かない、ということなのだ。

明治維新以降、教育の根底とされてきた本学(人間学)が消滅した事による弊害に他ならない。末学がいくら優秀であっても、本学を伴わない欠陥学問がいくら優秀であっても、人間の尊厳性を基盤に置いた人生(観)を確立する事はできないのだ。

そういった意味において『教育勅語』くらい、教育の本質、教育理念をコンパクトにまとめた文章は類例がないと断言できる。勿論、当時の言葉使いを現代風に直す必要はあるだろうが、個人的には、小学一年生頃から毎朝、この言葉を唱和させる事によって人間教育に大いに資するものがあると確信する次第だ。

 

体罰を考察する

 この相対性世界では法律は勿論、何事によらずパーフェクトという物事はあり得ない、という事はお判りだと思う。官僚特に司法関係者は、その事を明確に認識した上で国家、国民をリードし、また取り締まる必要があるのだ。

ところが、その実態を見ると、相対性を本質とするこの物質宇宙と、人間の本質性を理解できないまま、リードしようとしたり、取り締まろうとするから矛盾が噴き出すことになる。

この事を教育の分野で観てみよう。

インドの人間教育大臣であったMMジョシー師に子供の教育についてお訊きした時、掌を横に振って、「子供は犬や、猫と変わらない生き物なのだから言葉だけでは駄目で、やはり体罰で矯正しながら教育する必要があるのだ」と仰った事を記憶している。

恐らく、今の日本で文部大臣が同じことを言えば、世の女性や、教育評論家という無責任な連中、またマスコミに袋叩きに合うのだろう。それは彼らが人間の本質と、相対性世界を知らないからなのだが、それを指摘する漢(オトコ)も居なくなったのだ。

この問題は、最近話題の引きこもり問題に対する評論、報道においても似たような傾向にある事が判る。

引きこもりの人に対する理解とか、思いやりなどという無性帰任な言葉を吐いてしたり顔で居るのをTVでもめにするだろう。

”引きこもり”などというのは、明確な精神病に由来するものでない限り、単なる怠け者に過ぎないのだ。生来の弱いさ、臆病な気質はあったかも知れないが、親がそれに気づいて、子供の頃から矯正していれば、あれほどまで酷い情況にはなっているはずないのだ。いつごろから、この”引きこもり”という事例が顕著になり始めたか振り返ってみれば、国民所得の増加に比例している事が判るはずだ。

子供が家でゴロゴロしていても、経済的に負担できるだけの収入があるのを善い事にして、子供と向き合う面倒さを避けて来た親の責任以外の何者でもない。

何が、『引きこもりの人の心を理解する必要がある』だと、言いたい。

この世が相対性を本質としている世界である以上、何事であれパーフェクトはない、という事は繰り返し申し上げて来た。教育、躾けについてもその事に変わりはない。つまり、厳しく育てようが、やさしく甘く育てようが、どちらもパーフェクトはなく、欠点を避ける事はできないのだ。

ただ、これだけは言える。甘く優しい教育、躾けがもたらす欠陥よりも厳しさがもたらす欠陥の方が安全で、小さいという事を。

戦後の日本、特に1970年以降の日本は何事であれ、やさしさ、穏便さが至上のことのように勘違いして来たことが判るだろうか。体罰をここまで否定したのでは、不完全な子供をまともな大人に育てるための躾けも、教育もできなくなくなるという事が判らないらしい。

引きこもり問題だけでなく虐め問題、成人式の乱暴、俺おれ詐欺、少子化問題、働かない大人、財政問題・・、全て上記の一連の流れに、相応している事が判るのではないだろうか。

詰まる所、現下の日本の問題の殆どは、教育の在り様に起因していると言って過言ではないのだ。政治家が、本気で日本の将来を考えるなら財政問題や、経済成長問題ではなく人間教育も含めて教育を根本から考えなくてはならないと、理解する必要がある

人間という生き物が動物のレベルに留まっている以上、大人も子供も自分が第一であり、道理を訊く耳を持っていないが、叩かれるのが一番怖いというのが事実なのである。従って、自分よりも強いと思う人間の言う事は聴かざるを得ないのだ。つまり、怖い目に遭わせる事が、一番の薬になるという事でもある。そうした事を口にする人間を野蛮だとか、暴力的だと非難して、人間は話し合えば判るのだなどと、やさしさを主張する事は簡単だし、気分も良いだろう。

しかし、話し合って判り合えるなら親子同士の殺人事件も、虐め問題も、戦争も・・、とっくになくなっているはずではないか。

そして、そう言って”なーなー”で来た結果が、世界でも珍しい半独立国家、半社会主義的様相の国家、即ち現代の日本を創ったという事ではないだろうか。

次回は相対性世界の本質について語ってみよう。

 

 

 

 

 

 

ジェネレーションギャップがもたらした弊害

 *ジェネレーションギャップ現象の始まり

戦後70年間に及ぶ“人間教育不在”によって、戦前までの日本(人)には考えられなかったような社会現象、犯罪が引き起こされている事に気が付かれるだろうか。

戦前の教育を受けた大正生まれの教師達が小、中、高の教育現場から引退した頃から否、教育者だけでなく、大正時代生まれの東大、京大、士官学校等を卒業した政、財、官・・各界におけるリーダー達が、当該現場から居なくなった1970年辺りから、社会(=日本人)が徐々におかしくなり始めた事が判るだろうか。

この頃までは、『粗にして野だが卑ではない』という言葉を残された石田礼助氏に見られるような世界観、価値観、人生観を持ったリーダーが未だ各界に多く居たのだ。これらの人たちが戦後の日本を建て直し、経済大国日本を実現するためのリーダーシップを発揮した事はご承知のことだろう。

ところが、21世紀を迎えるころには東大卒の高級官僚、超大手企業の役員といったエスタブリシュッメントたちが、いずれはバレルと判り切っているような虚偽を平気で口にしたり、やったりする事件が後を絶たなくなったのである。判っているだけでこれなのだから、実数はこの何倍もあるのだろう。

大正生まれの人たちが居なくなって未だ半世紀も経っていないのに、「東大出がこの国をオカシクしている」と言われても、反論できないような情況になってしまった。

どういう訳なのか。

それでも、大正生まれの人達(戦前の教育を受けた年代層)から直接教育を受けたり、薫陶を受けられた昭和20年代生まれくらいまでの日本人には、人生観や、世界観にその名残を残している人が少なくなかった。男性を例に採ると、「人間として・・」とか、「男として・・」、とか「正々堂々と・・」といった精神性(漢気)を残していたという事なのだ。つまり、脆弱さとか、卑怯とか、恥・・といった精神性を嫌悪していたという事なのだ。

この点は、女性も同様と思われる。電車の中で化粧直しはするわ、パンは食べるは、男とぶつかりそうになっても、除けようとさえしない・・。むしろ、違いは女性の方が極端なのかも知れない。

しかし、今やこの年代の人達も70歳代になり、社会の現場から居なくなって数年が経過した訳だ。このジェネーレイションギャップによる影響が社会面や、人間生活面においてどのような弊害をもたらしたか、その実例を思いつくままに採り上げてみよう。

1970年代以前は、親の年金を宛てにして働かない、成人男子など皆無だったし、単なる怠け者に”引きこもり症”などと言う病名を付けて、面倒見てくれるような阿呆な親父など居なかったから、外へ出て働くしか仕方なかった。また、虐めらた位のことで自殺した子供も居なかったし、成人式で馬鹿げた衣装を着て、暴れるようなガキ共も皆無だった。何よりも、世界で最も暮らしやしとか安全と言われている国に生まれながら、年間3万人前後の自殺者が居ること自体、考えられなかった。

当時は、自殺とは親不孝の極致であり、地獄へ落ちて当然と言われていたから子供は勿論、大人にしても余程の事でもなければ、自殺するなど思いもよらい事だったのだ。

兵役を経験した大正生まれの親たちは、我が子が18歳過ぎて、大学も行かずにふらふらしているようなら、「自分で生きて行け」と言って、放り出すのが当たり前だった。

それは、子供が憎いからではなく、自分達よりも長く生きる子供のために社会を、人生を学ばす必要があると認識していたからなのだ。当然、精神病者以外で家庭内暴力をふるうような子供も皆無だった。

統計化したわけではないが、1970年辺りから親のダルマ(使命、義務)を怠り、何事も穏便にと見て見ないふりをして、甘やかす親が増えて来たように思われる。

概ね、1950年以降生まれの親に、見られる事に気が付くのではないだろうか。

敢えて言う次第だが、『オレオレ詐欺』に引っかかるような親や、祖母さんは、こうしたバカ親の典型的なタイプという事を。それを愛だなどと勘違いして美化する人間が居るが、愛は自分の子供以外にも与える精神性なのだ。それらの殆どは、自己愛の延長線上に在る、エゴの表れでしかないという事さえ分っていないらしい。

 

*男は居ても、“漢”が居なくなった日本

 ごく最近川崎市で起きた殺傷事件にも、その事が表れている。

事件の現場には多くの一般男性が居たにもかかわらず、あのキチガイ男を誰も止めようとしなかった今の日本をどう思うか。TVも下らないレポート番組をするくらいなら、その事を街頭で訊いてみたらどうなんだろう。それ以上に腹立たしいのが、TVのキャスターたちの誰一人その事に触れもしないで、キチガイ男の家庭環境とか、少年時代とか、何の役にも立たない事ばかりを採り上げて大騒ぎしている事なのだ。ブラウン管の向こう側で、したり顔してしゃべっているこうした連中を見ていると憤りというか、気味悪さを感じて仕方ない。

無論、被害にあった人達、特に子供たちは「可哀想」と言う以外、一言もないのだが、それ以上に無我夢中でそれを止めようとした男が一人も居なかった、という日本の現実に悲しさと、憤りを感じて仕方がないのだ。同時に、本当に日本(日本男子)は駄目になったんだな、という思いに捕われた事だった。

こうした問題の全ては、その根底に教育・・、人間教育の欠落があるという事に気が付かないだろうか。

前述した戦前生まれと、戦後生まれの男の違いは、『人間とは如何に生きるべきか』、『人間の尊厳性とは何か』、『男は如何に在るべきか』・・、といった精神性を意識しているか否かに在るのではないかと思うのだ。

さらに言うなら、『人間社会はどうあるべきものか』、『親子は・・』、『教師と生徒は・・』・・といった事を、小学校から大学に到るまで教える教程が存在しない事をどう考えるべきだろう。私見だが、特に文科省も含めて教育分野、警察、司法分野に就職しようとする人は、この事を学び、体得した人上で就くべきではないかと思うのである。否、そういう分野のテストこそ不可欠と思うのだ。

これを読んで『男尊女卑』だとか、『時代遅れ』などとしか思えない人間は、即刻このページを閉じるべきだ。

ただ、我が子が虐められるような問題だけでなく、人生では何時、何が降りかかって来るか判らないということを認識しておくべきなのだ。そして、何時であれ、何事であれ最終的には、己が力でしか解決する事も、切り開く事もできないのだという事も。

敢えて念押しをするまでもない事だが、本来教育とは勉強(知能)だけでなく、体育(健康、体力)、芸術的素養(感性、情緒)、そしてクラスメート達との交わりを通して学ぶ人間学、人生の先輩(教師)から学ぶ社会学(礼儀、信義、徳育)を身に着けるという事なのである。

 

*本学と末学

特に、人間学に関しては先生だけでなく、両親に大きな役割が課せられているのだ。しかしながら、それができる親も、教師も稀でしかなくなったのが、昭和30年代以降に生まれた日本人の特質と言える。つまり、子供よりも先生や、親の方から先に、人間学を教育し直さなければならないのが、我が国の現実と言ば、その深刻さが判るだろう。

学業の成績を上げるための数学や、英語・・、連れて経済学とか法律、政治、理化学・・といった学問は、生活のための学問ゆえに”末学”とされたいた。

一方、人間が本来学ぶべき学問として、”本学”という人間学が戦前までは厳然として存在していたのだ。それは点数でつけられるものではないが、成績以上に大切な学問であることは日本人共通の認識事項となっていた。だから、当時は学問の成績が良いだけでは、”がり勉”と言われて馬鹿にされていた。末学という生活のための学問だけに打ち込んで、本学という人間学を無視、軽視している事を、揶揄した言葉だったのだが、当時はそう言われるのは恥ずかしい事だと誰もが認識していたから、むしろ成績が良い子供ほど、人間としてどうあるべきかという事を常に考える癖を身につけていた。

真のエリートとは、家柄や財力、また学歴などで決められるものではなく、知力と体力そして人間力をレベル以上に習得し得た人物を評する言葉なのだ。

この3つを養成するための学校が陸軍士官学校と、海軍士官学校であったことをご存じの方も居ると思う。だから、この2校に合格する事は生徒の家や、地域にとっても名誉な事であったから、町村挙げて合格者を祝ってくれたのだ。

ある意味、そのくらい戦争に勝つために部下を導き、命を懸けさせる指揮者という存在は知力、体力だけでなく、人徳という人間力を備えている事が求められたのである。

こうしたエリートを育成いするための、また修得するための精神的基盤となったものが『教育勅語』であった事が判る。日教組や、共産党はここに謳われている真の意味を解釈しないで古い言葉使いや、揚げ足を取って非難~否定するのだが、外国の専門家などは教育理念、指針としてこれ以上のものは無いと絶賛しているのだ。

ともあれ、戦勝国と左翼思想団体によって、教育理念の支柱であった『教育勅語』が消滅させられた結果、戦後の日本は末学だけとなってしまったのだ。

結果として、戦後の日本の教育の在り様を見ると、真のエリートを養成し得ない中途半端な教育理念~体制に在る事が判ると同時に、前述した一連の不祥事、罪悪を生み出した背景が理解できるだろう。

即ち、大衆をリードすべきエリートが育てられない教育理念~体制のまま70年間経過した結果が、東大を卒業した人達の不祥事の連発になったと言えるのではないだろうか。

今こそ、『尊厳性ある人間』を養成するための教育基盤を確立する必要があると断言しておく。

個人的見解だが、『人間としての尊厳性』は、『自己責任意識』と『自己犠牲的精神性』が、両輪となって構成されている精神性と考えている。この2つが備わっていない”エリートもどき”くらい始末の悪い生き物は無いのだ。

この事については、後ほど触れる事になると思う。

因みに、マッカーサー占領政策において先ず取り組んだ事は、「あの貧しい島国の、小さな男たちが、何故あれほど強靭だったのか」を、解明する事だったと言われている。調査した結果、その源は子供の頃から叩き込まれた”本学”という人間学にあることが判ったらしい。

占領政策の一環として、あの非現実的な平和憲法を押し付ける一方、学校教育からは日本創生の歴史学と、本学という人間学教育勅語)を抹消してしまった事は解らなくもない。そして、その代わりとして叩き込まれたのが、出来損ないの左翼思想と、個人主義であり、それを植え付けるための日教組共産党などによる改革(=改悪)だったという訳だ。

それにしても、サンフランシスコ講和条約の締結と共に、占領政策は終了したにもかかわらず、今日までの総理大臣、誰一人として、日本民族の背骨、また存立基盤である憲法を、また日本民族として、将来に渡って存立して行くための歴史観、教育理念を本来の姿に戻そうとさえしなかったのだ。驚くべきことだと思ないか。その罪は、決して小さくないと思う。

如何に、アメリカに強要されていたとしても・・。

戦後の日本の教育は70年間、正に本末転倒の状態が続いているという事なのだ。

こう言えば、虐め問題一つも、教育理念の不在から出て来たことが理解できるだろう。

 戦後の歴代総理、文科省の官僚、或いは識者と言われる人達が、本当にこの事が理解できているのであれば、未だに日教組などという反教育的な組織を温存させているのはどういう意図があっての事なのか。このような組織を放置しておいて真の教育体制、その基盤となる教育理念など確立できるはずない事は明らなのに・・。

 

*自己責任意識

少し戻って、虐めに関して言うなら、今の時代においては、子供が虐められているのを止められるのはその子の親しか居ないのだ、という事を申し上げておく。

親の居ない子供はどうするのか、だって・・。その前に、親の居ない子供で、虐めで自殺した子供の話は聞いたことがあるか、という事を訊きたい。

子供というのは、大人よりも残酷なところがあるのはご存じだと思う。だから、昔から親の居ない子や、片親は虐められやすかったのだ。恐らく、今も変わらないと思う。

もし、親の居ない子が虐められて自殺したなどということがあれば、マスコミが放っておくはずないのだから、無いという事なのだろう。

ところが、現実にそういう話は聞いたことが無い、のはどういう事だろう。

この答えを知った時に、心から現代日本の躾け、教育の不在と、その問題点が浮かび上がって来る事だろう。

何よりも、問題は親の姿勢と言える。昭和3~40年頃までは、確かに担当の教師の責任も大きかっただろうが・・。

もし、我が子が虐められているのではないかと感じたら、すぐ率直に本人に訊く事だ。具体的な虐めの情況、思い当る理由、教師やクラスメートの反応(特に教師が気が付いているかどうか)・・、十分状況を把握した上で、担当教師に会い、確認した後、先生同席の上で虐めている子供達と話をすれば殆どの場合、解決するはずなのである。それが難しい悪質な情況なら、相手の父兄を呼んで話をする必要があるだろう。但し、この時の相手の出方次第では、『我が子を守るためには何でもやるぞ』と、腹を括っている事を相手に感じさせるくらいの強い決意をしておく必要がある。ある意味、それができるかどうかが、親としての資格があるか、どうかという事でもあるのだ。

 この虐め問題に対する政府というべきなのか、日本人というべきか・・、その対応振りを見ていると、特に法制化云々などという話を耳にすると、本当に虐めの本質が判っているのか、またそれで実効性があると確信しているのか、と訊きたくなるような体たらくでしかない。これは虐め以外の児童虐待、ストーカー、あおり運転、不法投棄問題、ゴミ屋敷問題・・、に対する政府や自治体の対応と、本質的には同じ問題である事が判る。要するに、何かをしたという実績作りと、責任逃れ以外の何者でもない事が一目瞭然なのだから根本的な解決につながる訳ないのだ。

福祉政策にスポイルされた現代の日本人は今こそ、生まれるという事、生きるという事は、全て自分自身の責任以外の何者でもないということを噛み締めるべきだろう。

 

 

『虐め』を考察する ② 5/31

お約束したように、今回は私の息子の虐められ体験、正しくは、息子の虐め問題解決に到るまでの実話という事になるのだが・・。恐らく、賛否両論姦しい事になると思う。私は、今も解決にはこれしかなかったし、これからもそうだと確信している。

 

*人間の愚かさと暴力

息子が公立中学校通い始めて半年くらい経ってのことだが、「どうも,あの子、学校でかなり虐められているみたいよ」と家内から言われた。その時は、「男なら、そんな事は自分で解決しないとだめだ」と突き放したのだが、家内が調べたところによると、小学校時代から有名な虐めグループで、中には転校させられたとか、何かで目を突かれて見えなくされた子供が居た、などという話が残っているということだった。息子が虐められるようになった切っ掛けは、クラスメートが虐めているのを止めた為らしい。

数日後、家内が「あの子の顔色を見ると、これ以上放っておけないと思う」と言い出した。翌日、私は担当の教師に会って、「クラスがこういう情況に在る事を知っていますか」と訊ねたところ、「知っています。しかし、体罰は禁止されてますし、強く叱るだけで親たちが学校長に文句を言うので、申し訳ないのですが、虐めを止めるというお約束ができないのです」と言うではないか。私は、すぐに校長にも会って、「筋は通しました。あなた達ができないからと言って、自分の息子が意味なく虐めらているのを放っておく事はできない、今後はこちらのやり方でやらせてもらいます」と断って、帰宅した。念のため、過去にこのグループから虐められたという子供の家に電話をして、母親から情況を訊いた後で、「問題解決のため一緒にやりませんか」と提案したところ、何と答えたと思う?

「内はもう関係ないんです。放っておいて下さい」と言うではないか。私は「あんたのような親が居るから、こういう事がいつまでも続いているのが判らないのか。この馬鹿者め」と言って電話を切った事だった。

恐らく、これが現代日本の多くの父兄(日本人)の実態なのだろう。虐め問題だけでなく、教育現場における諸問題は学校や、教育委員会、教師だけの責任ではなく、むしろ父兄の在り様に大きな問題があると認識すべきだろう。

私は、息子に「今から虐めグループのリーダーを呼び出して、これで頭をぶん殴れ」と言って木刀を渡した。「ケガをしたらどうしよう」と言うから、「そんなガキは怪我をして良いんだ。私が刑務所でも、どこでも行くからやりなさい。誰かがやらなければ、これからの3年間、お前だけじゃなく、他の生徒達も虐められ続けるんだ。男ならお止めてみろ」と、逃がさない。目の前で電話させて、呼び出させたのだが、私は、恐らくグループ全員が来るだろうし、息子の性格では無理だろうと思っていたから、こっそり後ろからつけて行った。案の定、来ていた4人に息子は凄まれ始めた。私はそこに出て行くや、「お前たちか、同級生を虐めている奴らは」と言うなり、全員の頭に拳骨を落としてやった。私のげんこつは痛いと、後輩たちにも有名だったから、全員座り込んだままうめき声をあげている。全員に「明日、お前たちの親父に、会社を休んで必ず学校に来るように言っておけ」と言って帰した。

その子達の親は、自分の子供が小学校時代からクラスメートを虐めていたという事実を知らないはずないのだから、私にすれば親も同罪だと思っている。

ところが、翌日来ていたのは母親ばかり。私は「今からお前達の亭主の会社に行って、引きずり出してやるから、そのつもりで居ろ」と怒鳴りつけた。ところが、特にリーダーの子供の母親は「うちの子は云々・・、子供を信じている・・」とか、言い始めたから「やかましい。ごちゃごたちゃ言ってると、母親のお前を引っ叩いて、今まで虐めらた子供の仇をとるぞ。女なら遠慮してくれるとでも思っているのか。今から亭主に電話をしろ」と怒鳴りつけつけた。恐らく、「この男は、危ない」とでも思ったのだろう、一瞬で静かになってしまった。マー、そのつもりで大声を出したんだが・・。そして「ガキや女を殴ってもしょうがない。亭主に覚悟してろと言っておけ。警察を呼ぼうが、やくざに頼もうが勘弁しないから、そのつもりで居ろ。お前の息子に虐められた子供や親の気持ちがどんなものだったか、自分の身体で感じさせてやる」と言った時、中の1人の母親が「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。それを契機に、全員が謝った。いい歳をして誤魔化す。当たり前の事をしないで、ただ怖いからというだけで謝る母親たちの愚かさを目の当りにした時、「これでもこの連中は、まともな社会人という事なんだろうな」、「今の日本はどうなっているんだ」とため息が出た事だった。

母親達の前で、子供達にもう一度げんこつをくれてやって「亭主が文句あると言うなら、いつでも相手をしてやると言っておけ」と言って、「お前たちの息子は、これ以上酷い事を何人のクラスメートにしたと思っているんだ。親のお前たちは、それを判っていながら知らん顔をして来ただろう」と言うと、ただ、頭を下げるだけ。子供達には、「これから先、誰れであろうがお前たちが虐めをしたと聴いたら、お前たちじゃなく、お前たちの父親を同じようにしてやるからそのつもりで居ろ」と、強く言った。その後、母親も含めて全員が、「二度としません」と誓ったので、「よし、これで終了だ」と言って、解散した訳だ。その日以来、小学校時代からあれほど有名だった虐めグループは胡散霧消してしまったのである。

 これで判る事だが、教師の話からも分かるように、話し合いなどは全く意味がなく、ただ、私の剣幕が怖かったから、言われる通りにしただけという事なんだ。それでも「話せば・・」と言いたい阿呆どもに言っておく。自分達(我が子も含めて)が間違った事、悪い事をしているという事に気づいていない場合は、話せばわかるという事もあるだろうが、悪い事を承知でやっている連中が、「あなたのやっている事は間違っている」と言われて、申し訳ないと謝ると思うかね。良い訳か、逆ねじを喰らわそうとするか、だけでしかないという事は、この話からも判る事だろうに。

 

 *地震、雷、火事、親父の『親父』が居なくなった日本

さて、近年話題になっている成人式での騒ぎが止まらないのは何故だと思います?あおり運転もそう、ゴミ屋敷もそう、大騒ぎするオバハンもそう、駅員や公務員、また看護士などに対する暴言、暴力行為の続発も同じ。

しかも誰一人として、この連中の理不尽極まりない要求や、暴言、暴力行為を叱りもしなければ、つまみ出しもしないで、敬語を使って対応するのを見ていると、不思議を通り越して、「バカじゃないの」と思う他ないのだ。

道理もなければ、大義もない。ただ、何事もないような顔をしてやり過ごすことが”賢い生き方”だとでも思っているのだろう。言っておくが、そんな賢さは、上にズルが付く賢さでしかないのだ。

人間学という本学を消滅させた戦後の日本は、賢さの上に狡(ズル)か、悪(ワル)が付く人間ばかりになったと言って過言ではあるまい。人間学を基盤においていない賢さでは”大義に生きる”事も、”道義に生きる”事もできないのだ。

TVなどではこうした騒動が出る度、したり顔したキャスターや評論家が、何か社会に原因があるような論調を繰り広げているが、具体的な対応策が出た試しがないのはご存じの通りだ。そもそも、こうした連中が、またそうした行為が続発し始めたのはそんなた大層な事ではないのだ。理由(背景)はたった一つ。捻くれた年寄りにしても、デキの悪いガキにしても、またオバハン達にしても・・、今の世の中の大人、特に大人の男が怖くなくなっただけの事なんだ。

社会に責任ありと言うなら、犯罪者に対してさえ『人権』、『暴力反対』という言葉を振り回す左巻きのマスコミ人や評論家、政治家たちの責任だろう。こうした事に、毅然と対応できない警察に、どういう存在意義があると言うのか。

「何が何でも暴力反対」という風潮に加えて、「子供(個人)の権利」だとか、「話せば解かりあえる」・・などといった、非現実的社会観を正論と勘違いしている学歴優秀、且つ人間性未成熟な評論家や、TVキャスター達が平和ボケした世論を誘導し、警察さえ動けなくしている現実をどう考えるべきだろう。

ヤクザの場合は、不条理な取り締まり方をしても、そこからもクレームが出ないから、警察も憂さを晴らすような取り締まりをしているように思えてならない。

しかしながら、こんな未成熟というか浅慮な社会の在り様を放置していると、必ずその反動に見舞われることになるのだろう。

虐めだけじゃなく、授業の放棄、校則違反、先生に対する反抗、家出、不純行為、犯罪・・を教師も親も止められない、解決もできない、そんなバカげた学校や家庭、社会に誰がしたのか。

言うまでもなく、昔も今よりも多くの不良たちが居た。しかし、彼らの多くにとって父親や、教師は怖い存在だったのだ。幼児の頃からそういう躾けができていたのだ。学校だけでなく家においても。しかし、今やちゃんとした躾けが出来る親が・・。

現代の日本には、『地震、雷、火事、親父』の親父が居なくなった事が判るだろう。

こんな社会が良いと思いますか?まともだと思います? 皆さんはどう思います?

ここまで来ても、「何が何でも暴力反対」などと寝言を言う人も居るだろうから、敢えてこれだけは言っておく。

あなたの子供が同級生や、上級生に意味なく虐められたとしても、先生は無論、教育委員会も、警察も・・何もできないし、してくれないのだ、という事を。

また、虐め問題の根本と言える教育や、躾けは法律とは別次元の問題だという事も。

そして、現代の教育問題の元凶はここに在る、という事を。

この世から戦争、犯罪がなくならないのと同様、法律で何とかしようとしても、虐め問題がなくなる事はない、という事を認識した上で、教育とは如何にあるべきか、を考えるべきなのだ。反対から言えば、この世から虐め、個人の争い事、夫婦げんか・・等がなくならない以上、戦争もなくなることはないという事でもある。

全ては、人間(世界)が内包する避けようのない本質性ゆえに。

だからこそ、その本質性を前提とした教育理念を確立し、制度化し、理念を実践し得る人物を養成し、教師にしなくてはならないのである。そのような教師を養成し、教育現場に立たせる事こそが、現下の日本において最大の急務でもあるという事なのだ

無論、昔から虐めはあった。ただ、いじめっ子だけでなく、不良と言われる子供達も多くは父親や、教師が怖かったのだ。だから、現代のように社会が右往左往するような事になる前に、ストップしていたのである。

できの悪い生徒を叩いたからと言って、教師を糾弾する馬鹿な父兄も、マスコミも居なかったのだ。さらに重要なことは、父兄が文句を言う気になどならないくらい、当時の教師は生徒からも、父兄からも畏敬の念を持たれていたのだ。また、それだけの人間性と学識、使命感を持っていた教師が多かったという事なんだ。

師範学校というレベルの高い、教師養成のための専門学校制度があった事が最大の要因だったと言える。

ある意味、体罰をする資格(人間力)を持った先生が多かった、という事でもある。

この資格(人間力)を持たない教師が叩くから体罰を超えた、暴力行為になる訳だ。

これは、戦後の親にも言える事だ。統計は採っていないが、1940年~50年頃を境にして、親の資格の無い親が増えて来た背景には、戦後の日本が人間教育(本学)不在に陥った事に根本的な原因があると思われる。

現代日本に見られる諸々の社会問題の原因は、究極のところ、戦後の教育の在り様に集約されるのではないだろうか。

当然と言えば当然だろう。

国家、社会を構成し、動かしているのは人間なのだから、社会の在り様は人間の在り様の写し鏡と考えても間違いではないだろう。

こうした観点から見ると、教育に関する考察はもう1~2回続ける必要があると思われる。楽しくないかも知れないが、勉強にはなると思うよ。

『虐め』を考察する ①

小中学生の虐め問題が世間に採り上げられるようになって、どのくらいになるのだろうか。問題解決のための手を全く打てないないまま来た政府は、とうとう事もあろうに子供の虐め問題を法制化しようとしているしい。そんなことで解決(=無くする)できたとしても、表面的なものでしかないのだ。

どうも政府関係者も、教育界の人間も、識者と言われる人達・・も、虐めの本質が全く分かっていないらしいのだから驚くではないか。教師の体罰と、一般的な所謂暴力行為を同じ次元で捉えてストップするのと同じ事がここでも行われようとしている訳だ。

改めて、政治家や、文科省の官僚、学識者など識者と言われる方々、そうそう論説委員とかTV局の偉い人達マスコミの人達に訊きたい。

1つ目は、これほど大騒ぎし、アレコレやっているにもかかわらず、虐めが減ったとか、無くなったという話を耳にしたことがないのは何故なのか、解明できているのか、或いは解明しようとしているのかという事を。それは何処の誰という人たちが、どういう手順でやっているのかという事を。

2つ目、あなた達は本当に、本気で虐め~これは学校だけでなく、企業の職場や警察、自衛隊など人間集団におけるものも含めて~を無くする事ができると思っているかという事を。

3つ目、虐めの本質は何なのか、原因は何処に在るのか、この問題を軽減するためには何をすべきなのか、といったことを解明しているのかという事を。

このブログを目にした人は、この問題に本気で取り組んでみられる事をお勧めする。真剣にこの問題を考察し、それなりの結論を導き出すことができれば、あなたの人間観、引いては人生観に深みを持たせると思う。

今も社会の木鐸を自認するなら、マスコミは虐めた子供を非難したり、学校や教師の責任を追及するといった無責任な報道をする前に、上記のエスタブリッメント人に質問しで、本音の聞き取り調査くらいしたらどうなのか、と言いたい。

日本の将来の為にも、識者特に教育関係者は、真に実効性のある解決策を考え、提案し、改革を断行するべき義務があるはずなのだ。

そのくらい、この現象は日本の将来を左右しかねない問題でもあると言える。

次々と子供が自殺をする恐るべき事態に、全く手が打てないのが現代日本の、また日本人の実態だという事を認識している人はどのくらい居るのだろう。経済成長だ福祉だなどと金を追いかえてばかりいないで、こんな国は世界で日本くらいしかないという事に意識を向けてみたらどうなんだ。

ゾーッとするものがあるだろう。それでも多くの日本人は、所詮他人事、一時的な現象くらいにしか思えないのだろうが。

もし、本音では、虐めはなくならないと思っているなら、無くならないという前提で、いじめ問題を捉え、現場の教師、教育委員会文科省そして父兄も含めて真の教育改革につながる、教育理念~在り様を考え直すべきではないのか。

現下の“虐め”に対する日本人の考え方、対応の仕方を見ていると、そのまま戦後の日本人の戦争、また平和に対する考え方と本質性が似ているように思われて仕方がない。それは又、戦後の日本人特有の、世界に例を見ない世界観でもある事が理解できる。

詰まる所、個人間の争いも、国家間の戦争も、本質的には相似形にあるという事に他ならない。この事からも言える事だが、虐め、夫婦げんか、親子喧嘩、友達との喧嘩、酒癖による喧嘩・・等々、この世から人間同士の喧嘩がなくならない限り、人間が殺し合う戦争がこの世からなくなるはずないのだ。

誰だって虐め(による自殺)、(紛争による)悲惨な情況・・を見た時、豊かで平和な人生を送っている自分が、何かできる事はないだろうかなどと考えるよりも、眉をひそめて「可哀想」という言葉を吐くだけで当事者意識や、後ろめたさを消し去った方が楽ではあるだろう。しかし、当事者意識を持たない経験などいくら繰り返しても、本当の学びにはつながらないのである。

これは平和ボケした日本人の特質とも言える。虐めに対する受け取り方、対応の仕方も、これと似たような精神性が共通しているように思われて仕方がない。

教育問題だけでなく憲法も、防衛も、外交も、財政問題も・・、濁りの元である物質を取り除く煩わしさには目をつぶって、かき混ぜて全体を薄くし、取り敢えず澄んだ水にしたつもりになって、「よし」とするような事を今まで続けて来た訳だ。

しかし、虐め問題に限らず、最早そういうやり方では通用しなくなったという事でもあると考えるべきなのだ。

 

さて、本題に入る前に、虐めによる子供たちの自殺に関して考察したい。

先ず、上記のエスタブリッシュメントの方達は、クラスメートに虐められたくらいで簡単に自殺する今の子供達をどう捉えてているのだろうか。その本音を知りたい。特に、文科省の官僚、教育界、マスコミのご意見番(と思われている人達)はどのように認識しているのだろうか。

本来、子供が自殺するなどということはあり得ない事と言っても過言ではない。若い生命体が持っている『生きようとするエネルギー』はそのくらい強く、大きいのだ。にもかかわらず、日本の子供達は何故これほど弱いのか、また弱くなったのか。こうした背景、根本原因を解明しないで、何を法制化しようと言うのか。

この自殺に関しては、虐めによる自殺の報道をする度にその責任者を作り上げ、眉をひそめて「可哀想」という言葉を連発して顧みないTVのコメンテイター達に言っておきたい。あんた達の「可哀想」連発弾のせいで、自殺する気持ちなどなかった子供がアテツケと、同情心を引くために、自殺を断行した可能性が大きいという事が判っているのか、という事を。

どのように言い訳しようが、或いは自己弁護しようが、あんた達の無責任な“可哀想連発弾”を連発した罪が消える訳などないのだ。

そうな情緒的な綺麗ごとを言うのではなく、「自殺するような子供は地獄へ落ちるんだ。今まで両親に育ててもらった恩義を忘れて、人生から逃げ出す馬鹿者だ。人生はつらいものだが、全て自分の責任で解決する努力をすることで成長するんだ」と何故、言わないのか。誰1人として・・。

ともあれ、厚労省か、文科省なのか知らないが、国は子供の安易な自殺傾向の根本原因を調べ、解決策を採るべきではないのか。

1946年、『貧しい島国の小さな黄色人種が何故、これほど強かったのか』という原因と、背景の究明に取り組んだ、占領軍司令官のマッカーサーが今の日本を見たら何と言うだろうか。それ以上に、日本を守ろうとして若い命を散らしたあの軍人たちにしてみれば、泣いても泣ききれない事だろう。本来の日本人は、これほどに虚弱な精神性の民族ではないのだにしてみれば

仕方のない事とは言え、学校側は「二度とないようにします」と言って、謝る事の繰り返し、自殺した子供の親は恨み事を言うばかり、TVのコメンテーターは眉をひそめて「可哀想」を繰り返すばかり・・で、実効性のある解決案など我が国の誰一人、口にしようとしない。

何処か、この国はオカシイと思わないか。

 

学校の責任に関して言うなら、体罰は無論のこと、あれもこれもダメと手足を縛られたままの今の教師に、また学校に何ができるというのか、と言う他ない。しかも、このような教育現場にした責任は、無論文科省の責任は逃れられないとしても、全父兄、特に母親たちにあるのではないのかね。

今回の法制化で「教師の責任を問う」ようなことを言っているが、そんなことをしたら、教師のなり手が居なくなるだけでしかないと、何故判らないのだろう。

教師や学校の責任を言うなら、このような教育理念、体制にした戦後の政治家、官僚にこそ本質的な責任があるのじゃないのか。

何をくだらない事をやっているのか。何のために、最高学府で学んだの過ね。そんなことではなく、もっと本質を洞察するべきじゃないのか。

さらに、虐めっ子や、学校を非難する自殺した子供の親たちにも敢えて言っておく。厳しい言葉かもしれないが、「他人(手足を縛られた教師も含めて)など充てにしないで、あなたたち親が本気で我が子を守る気があったら、我が子は自殺などしなかったのだ」、という事を。

まさか、あなた達は、自殺寸前まで追い詰められていた我が子の家での様子に「気が付かなかった」などとは言わないだろうね。どの子供も最も頼るべき親に「助けて欲しい」というシグナルを出し続けていたはずなんだから。もし、自分はそのシグナルを子供に出させないような親だったと思うなら、或いは本当に気が付かなかったと、言うのなら、自分以外の誰を非難できると言うのか。

 こうした父兄全般の人間性(レベル)凋落の一端が、我が子が叱られたからと言って、先生に文句を言ったり、怒鳴りつけるという現象であることも判るだろう。更に言うなら、もっと良くないのは校長も、教育委員も、文科省も・・、そうしたできの悪い父兄たちに何も言おうとしない事と言える。いやいや、マスコミの報道もそう。自殺者が出る度に恥ずかしげもなく、毎回無責任極まりない報道を繰り返すだけなんだから、社会の木鐸が聞いてあきれる他ない。

少なくとも、そんなアホな父兄に対しては校長や、教育委員が「あなたたちの子供は、これ以上面倒見切れません。自分の責任で他の学校を探して、転校しなさい」と放り出すべきなのだ。文科省やマスコミはそれをバックアップすべきなのだ。

先生をここまで弱い立場い追い込んでおきながら、「自殺の原因になった虐めを放置しておいたのは教師、学校の責任だ」などと恥ずかしげもなく言う。

何処か、日本は狂い始めていると思わないかね。

エスタブリッシュメントと言われる達が先ず考えるべきべきことは、子供たちが安易に自殺をする傾向を如何にして止めるかという事ではないのか。何故、このような精神性の子供が増えたのかという事を精査すべきではないのか。

政治家も、文科省の官僚も、TVのコメンテイターなどマスコミも・・識者と言われる連中の誰一人として、それを提案しないのは何故なのか。不思議を通り越した思いで居るのは、私一人だけだろうか。

こういう事を言うと、「お前は、虐められた子供を持ったことがないからそんな気楽な事が言えるんだろう」などと、捻くれたことを言う人も居ることだろう。だから、虐められた子供を持った親の経験を持つ私が、その時、どのようにして、どう解決したかを話してたいと思う。公開するのは、初めてのことだが、賛否両論ある事は承知の上。但し、自分があの時した行為には何らの後悔もないし、日本男児としてああするべきだったと、今も確信している。

来週は、殆どの人が驚くであろう実話をご披露する予定だ。但し、お断りしておくが私は裏社会の人間などではなく、大学卒業後は証券会社の調査マン、その後フルコミッションの営業をやって来た、少し型破りなだけの社会人であつたことをお断りしておく。