相対性世界を考察する2

 相対性世界を考察する2

 

ネガティブ性を本質とするこの世界

 先ず始めに、この世界は物質世界ゆえに時間と、空間によって制約されているという点について考察してみよう。

時間の制約とは、あらゆる物質、生命体は”死あるいは”崩壊、腐敗”そして消滅するという宿命から逃れられないという事。つまり、24時間の寿命しかないカゲロウも、数十億年間輝き続ける恒星も長短の違いはあるが、寿命を迎えて消滅する定めにあるのには変わりないという事なのだ。人間誰もが内包している生きる上での根源的な怖れは、この死に在る訳だ。日常、特に自覚している訳ではないが、何時か、何故かは判らないが、自分は間違いなく死ぬ、という事実に対する恐れを完全に拭い去る事は出来ない。

次に、空間による制約を具体的に言うなら、人間1人1人は孤立した存在であるという事。これもまた、死と同様、孤立した存在だと自覚することで、人間に根源的な恐れをもたらしている。『孤独を楽しもう』などと言っている識者も居るようだが、彼らに共通しているのは財力もあり、それ故に人が寄って来るもという点だろう。そうした人生が面倒になっただけのことなのだ。

この孤立に関して最も顕著な例を挙げてみると、母親は自分の分身であるにもかかわらず、生まれて間もない我が子が何故泣いているのか、正確には判らないという事が挙げられる。オムツが濡れた頃だとか、お腹がすいた頃・・というのは、母親や先輩から教えられたり、経験によって得た知識と言える。しかし、体の何処かに縫い針が刺さった痛み、或いは骨折した痛みで泣いていても、それは判らないのだ。さらに、子供が成長するに連れて、自分と我が子は判り合えないという事を、否応なく実感させられる事になる。それは子供も感じる事なのだ。つまり、遅かれ早かれ親子ともに、自分が孤立した存在であるという事実を自覚させられる事になる訳だ。

この事から『一心同体』という言葉は、恋愛関係にある二人が理想を言っているだけでしかない事が理解できるだろう。恋愛関係が永続する事はあり得ないのだから。

この2つの制約ゆえに、この世には真に自由な人間は存在し得ないという事が理解できると思う。権力や金で自由が実現できるなどと思っているのは、それを持っていない人間の夢でしかないのだ。

さらには、物であれ、概念であれ、それらの価値は時間や、情況(空間)によって変容する、またそれ故に比較性を持っているといった事も、相対性世界の特質と言える。それ故に、この世界には絶対善も、絶対悪もないのである。善悪の基準はその時々、また情況次第でクルクル変わるのだから・・。「幸、不幸あざなえる縄のごとし」という諺通りの世界、これまた人間の心そのものでもある事が判るだろう。我々の心、マインドは地獄(鬼)から天国(如来)まで、その時の情況次第で刻一刻、クルクルと変容しているという事でもある。

こうした特質を観る時、この世界はネガティブ性を基盤にしている世界らしい、という事が理解できるのではないだろうか。

因みに、昔から『性善説が正しいか、性悪説が正しいか』という議論がなされて来た事はご存じと思う。それを経験した方も少なくないだろう。

断言しておく。”性善説”は、非現実的な人間観、世界観であって、相対性世界では永続する平和も実現する事もなければ、国境がなくなって人類が一つになるというような事もないということを。もし、こうした相対性世界の本質が判っていれば、いずれEUは破綻せざるを得ないと予見できたし、先進各国の難民の受け入れには限界があり、これも行き詰まると、予測できたと思う。

難民問題に対して言うなら、そもそも、その国に生を受けたのは必然の結果であり、如何に悲惨な国であろうとも努力し、助け合いながら~使命を持った人は、国家のあり様の修正、革命に挑む事になるのだろう~、生き抜くというダルマ(正義、義務、使命)を持っているのである。

国を捨てるという事は、例えて言えば家族、家庭を捨てるという事なのだ。一時は苦労を免れるだろうが、他国で充実した人生を構築する事は先ず不可能と言える。逃避から何かが生まれる事はないのだ。

それができるなら、人間は自殺する事でこの辛く、苦しい人生から逃れられるように創られているはずなのだ。自殺は、人間にとって究極の逃避だからこそ、どの宗教も自殺を厳禁としているのである。相対性世界の特質と、そこに生まれ、生きる意義が理解できるに連れて、自殺を厳禁にしている意味が理解できて来ると思う。

この数年、中学生程度のガキが平気で自殺をする。そこにはその年まで育ててくれた両親に対する感謝の念の欠片もないと言える。虐められる位で自殺するなら、北朝鮮アフガニスタンやアフリカの子供はどうするのか。

それを、マスコミは「可哀想」しか言わない。識者も虐めを無くする方法だとか、警察も法律云々・・、などと、この人たちは本当に最高学府を出ているのかと、知的レベルを疑うような事しか言わない。

自殺が如何に愚かで、恐ろしい行為なのか、自分にどういった結果をもたらすのかという事を、今の日本人は誰も教えられなくなっている。そういう教育を受けていないから。こうした愚かさが、政界、財界、官界、マスコミ、教育界、一般庶民・・に及んでいる。それが、あらゆる分野で噴出している事にも、誰も気が付いていないのだ。

こうした観点に立った時、“可哀想”という情緒的な感覚だけで難民を受け入れるのではなく、その国を在るべき体制にしようと努力する(革命を志す)人たちに資金や武器、技術面での援助をするべきなのだ。尤も、欧米が難民問題に取り組むのは、全て自分たちが引き起こしたと承知しているからなんだ。日本にケツを向けるのは筋違いも甚だしい。さて、自分の家庭は家族が守り、進歩する義務があるように、国家は国民が守り、育てるべきなのだ。当然、多くの犠牲者も出るだろう。それでも、チャレンジし続ける事がその国(家庭)に生まれた人間が持つダルマなのだ。

誤解しないようにお断りしておくが、私はここで世界も、人類も・・、存在意義がないなどと、ニヒリズムな事を言っているのではない。むしろ、人類はこうしたネガティブ性を本質性とする世界に生まれ、自分に合った(概ね苦痛な)人生を歩む事に大きな意味があると言いたいのだ。

人間は、誰もが先ず、その事に気が付く必要があると言える。

しかし、キリスト教西洋合理主義をスタンダードとする現代世界においては、相対性世界の本質性と、そこに生まれ、生きる意義を理解し、気づく事は非常に困難と言わざるを得ない。何故なら、それを学ぶ事は、そのまま一神教的世界観を否定する事につながりかねないことになるから。

キリスト教に限らず、神仏と人間は別の存在と考えている現代の宗教において、上記の世界観を理解するのは難しいと言うよりも、学ぶことに精神的な抵抗感が強いのではないかと思う。

全ては、物質的世界観を本質とする世界人類故の必然と言う他ない。

人類が、次なる指針(キリスト教西洋合理主義に代わるスタンダード)を本気で求めるなら、超相対性世界観へたどり着く以外ないのだが・・。

さて、この世界で生きる意義を一言で言うなら、”学びの為”と言う以外にない。学びの答えは、出世するためでも、金持ちになるためでも、身体頑強になるため・・でもないという事はお断りしておく。

相対性を本質とするこの世は、学び(=修行)のために存在する世界ゆえに不条理性も、矛盾も、また強弱、貧富・・等の格差も、病気も、苦脳・・も、全て必然として存在するし、続くという事を理解し、受け入れる必要があるのだ。

相対性世界の本質を理解できて漸く真の世界観、価値観、人生観を確立する事ができると言っても過言ではない。

 

相対性の顕れ

特に、政治家や司法、官僚、有識者・・等、人々をリードする立場に在る人達が、人間という生き物の本質性、連れて人間社会は何事によらずプラス面と、それに相応するマイナス面、つまり対極性を有しているという相対性世界の特性を理解していないと、皮相的なものの観方になってしまい、ピントはずれな事を考えたり、言ったりすることになる。その結果、社会全体が混とん、また不透明な情況に陥る事になる。

皆さんは現代の世界、日本の情況を観てどう思われるだろうか。

本学(人間学)を学んだことさえない戦後日本のエスタブリッシュメント達は、押し並べてセレブな家庭に育ち、学校の成績も優秀だった為に、虐められる事も、叱られる事も、喧嘩をする事もないまま最高学府に到る人が殆どと言える。だから、生来頭が悪い子とか、貧しい家の子の悲しさ、虐められる子が持つ辛さ・・など、想像さえした事ないだろう。その人たちが試験に合格しただけで国家の主要な立ち位置に座り、国家を運営するのだから、ピントがずれたとしても仕方がないのだ。上から下、右から左、貧から富裕、強から弱・・と多様な人間が得するために、生存競争を繰り返すこの人間社会を運営して行くことができるか、どうか考えてみれば良いのだ。

ほんの50年ほど前までは日本全体が未だそれほど豊かでなかった。それはある意味、貧富の差が少なかったというか、貧しい家庭で育った子や、親を失い苦労した子供でも優秀であれば、超一流大学に合格するチャンスがあった。現代は、頭脳明晰に生まれた子供であっても、有名塾に通い、一流小、中学校に入学できるだけの経済的裏付けがなければ、超一流大学に合格する事は不可能とさえ言える社会になっている。

合格する子供の多くは貧しさに泣いた事も、謂われない虐めにあった事もない少年時代を送って来たため、他人を思いやる、忖度するという経験をする必要などなかった。一方、貧しいというだけで虐められたり、親の苦労を見て育った子は、否応なくそうした人生を通して、完全ではなくとも本学(人間学)を身に付ける事になった訳だ。ある意味、無意識のうちに相対性世界が持つ矛盾と、不条理性を学んで来たとも言える。

『苦労は買ってでもしろ』というコトワザの真意が判るではないか。

因みに、学力優秀で合格した高級官僚や学識者に見られる事に、社会は理論で動く(べき)と考えている人が多い気がする。これが極端な人は、理論的にエクスキューズ(言い訳)ができる事は基本的に正しい事と考えているらしい。

彼らには、人間社会は理論、理屈でなく、感情で動くもの、という人間の本質が観えないのである。さらに言うなら人間は、最終的には損得よりも、好きか嫌いで動くもの・・、という人間の本質性も承知しているとは言えない。しかし、そうしたレベルの人間洞察力では様々な価値観、世界観の持ち主が渦巻く人間社会を調整したり、リードする事などできるはずないのだ。

ただ、現代の日本は、そこまでしなくとも恙なく生きて行ける、世界でも稀有な国情に在るため、そうした事を自覚させられる情況にないというだけのことなのである。

人間は、突然この世界が持つ矛盾と、不条理性に直面した時、それを解決しようと苦悩したり、逃げたり、挑戦したり、恨んだり、憤ったり、逃げたり、反省したり、感謝したり・・を繰り返す事で成熟し、厚みを増すのだ。

しかし、それができないと言うよりも、させてくれない環境で育った人が、社会をリードする立場に着いている国家が日本と言えるだろう。

個人的見解だが、現下の日本に起きている様々な問題は、一にこれまで考察して来た教育・・人間教育の欠落がもたらした結果ではないかと考えざるを得ない。

因みに、チョット情況が変わっただけでブレるかと思うと、何が何でも暴力はいけないとか、法律を守る事が絶対というような薄っぺらで、硬直化した社会観が横行するようになる。

良いですか。社会には暴力が必要な場合があるし、また必要のないやさしさもあるのだ。この事を良く考えて欲しい。

例えば、法律を守る事は大切だが、法律とは本来人間社会、国民のためにあるもので、人間(社会)より法律が先に在る訳ではないのだ。その両者間に在る微妙さを埋めるのが人間力というものなのに、そうした点には全く意識を向けていないと言うより思いが行かないのが、現代の学識者、或いは為政者という事なのだろう。

2000年以上も前にイエスが仰っている事なのに・・。

 

体罰を法制化する』。誰が言いだしたのか知らないが、子供の教育、躾けに不可欠な体罰と、暴力を一緒くたにして論じるバカバカしさに気が付かないのだからあきれる他ない。あのゆとり教育もそうだが、こうした連中は本気で日本をオカシクしようとしているのではないか、と思わざるを得ない。

認識しておくべきは、体罰は子供を育てる上で不可欠な教育法の1つだという事と、その体罰を正しくできる教師や、親が居なくなったという事。連れて、それは背景を解明し、解決策を確立する必要があるという3点なのだ。要するに、体罰をする資格のない教師や、親が増えた背景を解明し、解決するための手段を確立する必要があるという事なのだ。教育勅語の価値と、過っての師範学校の価値を学んでみれば、すぐに答えを得られるはずなのだ。

新聞紙面を見ていると、これから益々こうした浅薄な世界観で社会制度を作り、法制化につなげてしまう傾向が強くなるのではないかと懸念する事を抑えられない。言わば、百円硬貨の表だけを求める愚かさに疑問を持たない、またそれが実現できると勘違いした狭く、浅い独善的な世界観の持ち主が増えて来るのではないかと思うのだ。

詰まる所、70年もの間、当該民族にとって最も重要な国防問題を考えずに来た戦後の日本人は、老若男女を問わず、平和ボケしてしまったために、自己責任意識(用心深さ、潔さ、人生は自分次第・・)も、自己犠牲的精神性(漢気、寛容、公共性・・)も希薄になってしまった、つまり、賢くさがなくなったという事でもある。

詐欺師にとって今ほど、鴨にしやすい日本人は居ないのではないかと思う事がある。

断言しておく。相対性を本質とする物質世界においては暴力であれ、逆の穏便さであれ、どちらも絶対善でも、絶対悪でもないという事を。

それは金銭であれ、権力、地位であれ、体力であれ、知識であれ・・、全てに潜在している対極性(相対性)であり、相対性世界の本質なのだ。医薬品は効能が高い分だけ副作用も高く、洗剤は洗浄力が高いほど有害性が高い・・、この世に流通している物質、概念・・全てこの相対性という本質から逃れる事はできないのである。

しかし、賢くない主婦や凡夫は、『政治家はプラス面だけ出すべきなのだ』と思い込んでいるらしい。

こうした衆生が多いからだろう。法律の許す(=誤魔化せる)範囲で、プラス面を大きくプロパガンダ(宣伝)する反面、マイナス面をゆる範囲で隠して商品を販売し、収益をあげているのが世界共通の企業の実態と言える。個人的見解ではあるが、製薬会社、化粧品会社、洗剤会社の御三家には、詐欺師をして「俺達よりも酷い嘘をつきまくって儲けているじゃないか」と、言いたくなるのではないかと思う事がある。

物質も、概念も、それが内包する善と悪は情況次第、条件次第でクルクル変わる事を繰り返しているのがこの世界の実態なのである。

相対性について判りやすい例えとして、ダイナマイトを採り上げてみよう。

ダイナマイトは、その爆発力であらゆる物を吹き飛ばしてしまう非常に危険な物質である。これを争い事や、戦争に使うからダイナマイトは危険な物質と決めつけけられる事になる。しかし、鉱山開発や建設に使った場合、労力の何十倍もの働きをする事で、人間社会に大いに貢献すことになる訳だ。

つまり、この百円硬貨の裏、表的な事相が、相対性世界の本質性なのである。

「それにしても、しつこく相対性をやるもんだな」と思われた方も居ると思う。しかし、『この世界、物質宇宙は相対性を本質とする世界』という事を認識していない事には、真っ当な世界観、人間観、社会観、価値観、人生観・・を確立する事ができないし、人間としての深みと、広がりを身に着けられないからに他ならない。

最後に、相対性世界を生きていく上でのポイント(留意点)を列挙しておこう。詳しくは、別の機会にさせていただくが、自分でも考えてみて欲しい。

1絶対善もなく、絶対悪もない故にこの世界を生きていく上で、バランス観(タイミングも含む)が最も大切と言える。 2さらに、バランスを採るための支点を探し、確立する事。但し、支点は常に動くため、これを確立する人が真の知恵者と言える。 3ベストはなく、ベターの世界。これは、永続する幸福がない事にもつながる。人生に表れる幸、不幸は 1対4の割合(?) 4価値は常に変動する(有為転変、禍福あざなえる縄のごとし) 5人生全てが学びのために在る(これに気が付く事が進化の第一歩)。

今週はここまで。