『虐め』を考察する ② 5/31

お約束したように、今回は私の息子の虐められ体験、正しくは、息子の虐め問題解決に到るまでの実話という事になるのだが・・。恐らく、賛否両論姦しい事になると思う。私は、今も解決にはこれしかなかったし、これからもそうだと確信している。

 

*人間の愚かさと暴力

息子が公立中学校通い始めて半年くらい経ってのことだが、「どうも,あの子、学校でかなり虐められているみたいよ」と家内から言われた。その時は、「男なら、そんな事は自分で解決しないとだめだ」と突き放したのだが、家内が調べたところによると、小学校時代から有名な虐めグループで、中には転校させられたとか、何かで目を突かれて見えなくされた子供が居た、などという話が残っているということだった。息子が虐められるようになった切っ掛けは、クラスメートが虐めているのを止めた為らしい。

数日後、家内が「あの子の顔色を見ると、これ以上放っておけないと思う」と言い出した。翌日、私は担当の教師に会って、「クラスがこういう情況に在る事を知っていますか」と訊ねたところ、「知っています。しかし、体罰は禁止されてますし、強く叱るだけで親たちが学校長に文句を言うので、申し訳ないのですが、虐めを止めるというお約束ができないのです」と言うではないか。私は、すぐに校長にも会って、「筋は通しました。あなた達ができないからと言って、自分の息子が意味なく虐めらているのを放っておく事はできない、今後はこちらのやり方でやらせてもらいます」と断って、帰宅した。念のため、過去にこのグループから虐められたという子供の家に電話をして、母親から情況を訊いた後で、「問題解決のため一緒にやりませんか」と提案したところ、何と答えたと思う?

「内はもう関係ないんです。放っておいて下さい」と言うではないか。私は「あんたのような親が居るから、こういう事がいつまでも続いているのが判らないのか。この馬鹿者め」と言って電話を切った事だった。

恐らく、これが現代日本の多くの父兄(日本人)の実態なのだろう。虐め問題だけでなく、教育現場における諸問題は学校や、教育委員会、教師だけの責任ではなく、むしろ父兄の在り様に大きな問題があると認識すべきだろう。

私は、息子に「今から虐めグループのリーダーを呼び出して、これで頭をぶん殴れ」と言って木刀を渡した。「ケガをしたらどうしよう」と言うから、「そんなガキは怪我をして良いんだ。私が刑務所でも、どこでも行くからやりなさい。誰かがやらなければ、これからの3年間、お前だけじゃなく、他の生徒達も虐められ続けるんだ。男ならお止めてみろ」と、逃がさない。目の前で電話させて、呼び出させたのだが、私は、恐らくグループ全員が来るだろうし、息子の性格では無理だろうと思っていたから、こっそり後ろからつけて行った。案の定、来ていた4人に息子は凄まれ始めた。私はそこに出て行くや、「お前たちか、同級生を虐めている奴らは」と言うなり、全員の頭に拳骨を落としてやった。私のげんこつは痛いと、後輩たちにも有名だったから、全員座り込んだままうめき声をあげている。全員に「明日、お前たちの親父に、会社を休んで必ず学校に来るように言っておけ」と言って帰した。

その子達の親は、自分の子供が小学校時代からクラスメートを虐めていたという事実を知らないはずないのだから、私にすれば親も同罪だと思っている。

ところが、翌日来ていたのは母親ばかり。私は「今からお前達の亭主の会社に行って、引きずり出してやるから、そのつもりで居ろ」と怒鳴りつけた。ところが、特にリーダーの子供の母親は「うちの子は云々・・、子供を信じている・・」とか、言い始めたから「やかましい。ごちゃごたちゃ言ってると、母親のお前を引っ叩いて、今まで虐めらた子供の仇をとるぞ。女なら遠慮してくれるとでも思っているのか。今から亭主に電話をしろ」と怒鳴りつけつけた。恐らく、「この男は、危ない」とでも思ったのだろう、一瞬で静かになってしまった。マー、そのつもりで大声を出したんだが・・。そして「ガキや女を殴ってもしょうがない。亭主に覚悟してろと言っておけ。警察を呼ぼうが、やくざに頼もうが勘弁しないから、そのつもりで居ろ。お前の息子に虐められた子供や親の気持ちがどんなものだったか、自分の身体で感じさせてやる」と言った時、中の1人の母親が「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。それを契機に、全員が謝った。いい歳をして誤魔化す。当たり前の事をしないで、ただ怖いからというだけで謝る母親たちの愚かさを目の当りにした時、「これでもこの連中は、まともな社会人という事なんだろうな」、「今の日本はどうなっているんだ」とため息が出た事だった。

母親達の前で、子供達にもう一度げんこつをくれてやって「亭主が文句あると言うなら、いつでも相手をしてやると言っておけ」と言って、「お前たちの息子は、これ以上酷い事を何人のクラスメートにしたと思っているんだ。親のお前たちは、それを判っていながら知らん顔をして来ただろう」と言うと、ただ、頭を下げるだけ。子供達には、「これから先、誰れであろうがお前たちが虐めをしたと聴いたら、お前たちじゃなく、お前たちの父親を同じようにしてやるからそのつもりで居ろ」と、強く言った。その後、母親も含めて全員が、「二度としません」と誓ったので、「よし、これで終了だ」と言って、解散した訳だ。その日以来、小学校時代からあれほど有名だった虐めグループは胡散霧消してしまったのである。

 これで判る事だが、教師の話からも分かるように、話し合いなどは全く意味がなく、ただ、私の剣幕が怖かったから、言われる通りにしただけという事なんだ。それでも「話せば・・」と言いたい阿呆どもに言っておく。自分達(我が子も含めて)が間違った事、悪い事をしているという事に気づいていない場合は、話せばわかるという事もあるだろうが、悪い事を承知でやっている連中が、「あなたのやっている事は間違っている」と言われて、申し訳ないと謝ると思うかね。良い訳か、逆ねじを喰らわそうとするか、だけでしかないという事は、この話からも判る事だろうに。

 

 *地震、雷、火事、親父の『親父』が居なくなった日本

さて、近年話題になっている成人式での騒ぎが止まらないのは何故だと思います?あおり運転もそう、ゴミ屋敷もそう、大騒ぎするオバハンもそう、駅員や公務員、また看護士などに対する暴言、暴力行為の続発も同じ。

しかも誰一人として、この連中の理不尽極まりない要求や、暴言、暴力行為を叱りもしなければ、つまみ出しもしないで、敬語を使って対応するのを見ていると、不思議を通り越して、「バカじゃないの」と思う他ないのだ。

道理もなければ、大義もない。ただ、何事もないような顔をしてやり過ごすことが”賢い生き方”だとでも思っているのだろう。言っておくが、そんな賢さは、上にズルが付く賢さでしかないのだ。

人間学という本学を消滅させた戦後の日本は、賢さの上に狡(ズル)か、悪(ワル)が付く人間ばかりになったと言って過言ではあるまい。人間学を基盤においていない賢さでは”大義に生きる”事も、”道義に生きる”事もできないのだ。

TVなどではこうした騒動が出る度、したり顔したキャスターや評論家が、何か社会に原因があるような論調を繰り広げているが、具体的な対応策が出た試しがないのはご存じの通りだ。そもそも、こうした連中が、またそうした行為が続発し始めたのはそんなた大層な事ではないのだ。理由(背景)はたった一つ。捻くれた年寄りにしても、デキの悪いガキにしても、またオバハン達にしても・・、今の世の中の大人、特に大人の男が怖くなくなっただけの事なんだ。

社会に責任ありと言うなら、犯罪者に対してさえ『人権』、『暴力反対』という言葉を振り回す左巻きのマスコミ人や評論家、政治家たちの責任だろう。こうした事に、毅然と対応できない警察に、どういう存在意義があると言うのか。

「何が何でも暴力反対」という風潮に加えて、「子供(個人)の権利」だとか、「話せば解かりあえる」・・などといった、非現実的社会観を正論と勘違いしている学歴優秀、且つ人間性未成熟な評論家や、TVキャスター達が平和ボケした世論を誘導し、警察さえ動けなくしている現実をどう考えるべきだろう。

ヤクザの場合は、不条理な取り締まり方をしても、そこからもクレームが出ないから、警察も憂さを晴らすような取り締まりをしているように思えてならない。

しかしながら、こんな未成熟というか浅慮な社会の在り様を放置していると、必ずその反動に見舞われることになるのだろう。

虐めだけじゃなく、授業の放棄、校則違反、先生に対する反抗、家出、不純行為、犯罪・・を教師も親も止められない、解決もできない、そんなバカげた学校や家庭、社会に誰がしたのか。

言うまでもなく、昔も今よりも多くの不良たちが居た。しかし、彼らの多くにとって父親や、教師は怖い存在だったのだ。幼児の頃からそういう躾けができていたのだ。学校だけでなく家においても。しかし、今やちゃんとした躾けが出来る親が・・。

現代の日本には、『地震、雷、火事、親父』の親父が居なくなった事が判るだろう。

こんな社会が良いと思いますか?まともだと思います? 皆さんはどう思います?

ここまで来ても、「何が何でも暴力反対」などと寝言を言う人も居るだろうから、敢えてこれだけは言っておく。

あなたの子供が同級生や、上級生に意味なく虐められたとしても、先生は無論、教育委員会も、警察も・・何もできないし、してくれないのだ、という事を。

また、虐め問題の根本と言える教育や、躾けは法律とは別次元の問題だという事も。

そして、現代の教育問題の元凶はここに在る、という事を。

この世から戦争、犯罪がなくならないのと同様、法律で何とかしようとしても、虐め問題がなくなる事はない、という事を認識した上で、教育とは如何にあるべきか、を考えるべきなのだ。反対から言えば、この世から虐め、個人の争い事、夫婦げんか・・等がなくならない以上、戦争もなくなることはないという事でもある。

全ては、人間(世界)が内包する避けようのない本質性ゆえに。

だからこそ、その本質性を前提とした教育理念を確立し、制度化し、理念を実践し得る人物を養成し、教師にしなくてはならないのである。そのような教師を養成し、教育現場に立たせる事こそが、現下の日本において最大の急務でもあるという事なのだ

無論、昔から虐めはあった。ただ、いじめっ子だけでなく、不良と言われる子供達も多くは父親や、教師が怖かったのだ。だから、現代のように社会が右往左往するような事になる前に、ストップしていたのである。

できの悪い生徒を叩いたからと言って、教師を糾弾する馬鹿な父兄も、マスコミも居なかったのだ。さらに重要なことは、父兄が文句を言う気になどならないくらい、当時の教師は生徒からも、父兄からも畏敬の念を持たれていたのだ。また、それだけの人間性と学識、使命感を持っていた教師が多かったという事なんだ。

師範学校というレベルの高い、教師養成のための専門学校制度があった事が最大の要因だったと言える。

ある意味、体罰をする資格(人間力)を持った先生が多かった、という事でもある。

この資格(人間力)を持たない教師が叩くから体罰を超えた、暴力行為になる訳だ。

これは、戦後の親にも言える事だ。統計は採っていないが、1940年~50年頃を境にして、親の資格の無い親が増えて来た背景には、戦後の日本が人間教育(本学)不在に陥った事に根本的な原因があると思われる。

現代日本に見られる諸々の社会問題の原因は、究極のところ、戦後の教育の在り様に集約されるのではないだろうか。

当然と言えば当然だろう。

国家、社会を構成し、動かしているのは人間なのだから、社会の在り様は人間の在り様の写し鏡と考えても間違いではないだろう。

こうした観点から見ると、教育に関する考察はもう1~2回続ける必要があると思われる。楽しくないかも知れないが、勉強にはなると思うよ。