相対性世界を考察する 1

 

民族の本質性が狂い始めた日本

 

この物質宇宙は、『相対性』を本質としている事をご存じの方は少なくないと思う。

つまり、相対的を本質とする世界で我々人類は生まれ、生き、死ぬという生命活動を繰り返している訳だ。そして、母なる地球と呼ばれている事もご存じだと思う。だから、自分の“人生を自覚して生きる”ためには、その前提としてこの世界、人類社会の本質性である物質的相対性と、その本質性故の出来事、諸現象を認識することが不可欠になるという事は理解できるだろう。

しかし、現実にそれを自覚して生きている人間が居るのかと言えば、稀だろう。特にそれを自覚していなくとも、生きるだけなら損得勘定だけで折々の情況に対処しながら生きて行く事はできるのだから。

しかしながら、自覚して人生行路を歩むか、しないで生きるかという違いには、とてつもなく大きなものがあるのだが、物質的世界観だけで生きている人(殆どの人がそうだが)にとっては意味の無い、理解不能な事かも知れない。

但し、政治家や官僚(司法関係も含めて)、有識者オピニオンリーダー・・など人々をリードし、責任を伴う立場に在る人、~ああ、特に宗教家を自覚する人にとっては~相対性世界の本質性を理解、認識した上で物事を観て、考える事が不可欠だと言っておく。言う前もない事だが、上記のような事は、学校の授業では無論、今や宗教でさえ教えてくるものではない。しかし、人類が生きるてい舞台であるこの世界の本質性を考察し、深く理解する事は、そのまま世界観、価値観、又人生観に深みと、広がりがもたらし、洞察力をもたらすという事は理解できるのではないだろうか。

例えば、その事を理解し、洞察力を高めた人にしてみると、先般あった保釈した容疑者に逃げられるような事をもたらした対応の仕方、さらに保釈者の増加傾向、あおり運転者に対して注意だけで帰す処理、ゴミ屋敷、釣り用のタラップを勝手に作って御咎めなし、さらには所有者不明の家や、車の処分ができない・・などといったバカバカしい事は一生に付することだろう。日本の伝統的文化に自信がないのか、キリスト教価値観を中途半端に取り入れて偏った社会制度を構築して顧みようともしない。

ゆとり教育に似たような働き方改革、女性の社会進出、親の子への体罰防止法・・、何を考えているかとしか言いようがない。欧米の文明を取り入れるのを良しとするケースもあるだろうが、民族が培ってきた精神性、精神文化まで変えてどうしようと言うのか。何をする場合も、為政者は本気で考えるべきだろう。

考えてるだって?  例として上記に挙げた3点を見ただけで、とても日本(民族)の将来を考えているなどとは言えまい。

 

キリスト教西洋合理主義の問題点

死刑廃止論も含めてこうした傾向は、キリスト教神学をベースとする性善説を基本においた世界観、人間観から生まれて来たものと言える。言っておくが、今のキリスト教の基盤とも言えるキリスト教神学は、イエスの御教えとは全く異なる哲学者が言った哲学に過ぎないのだ。そんなことは、歴史を見れば誰にでも解かる事ではないか。

しかし、アウグスツヌスから1500年、トマスアクイナスから700年、この哲学を取り入れた世界のキリスト教指導者は、イエスの御教えを自分たちに都合よく変容し、”イエスの教えもどき”を人々に教え続けて来たのだ。史実にもあるように、それに異論を唱えたり、反対する人たちを火焙りにしたり、拷問したりして殺戮して来た歴史を今さら否定はしないのだろう。個人的には、イエスの教えをゆがめた代表的な事例が、「蒔いた種は蒔いた者が刈り取りなさい」という御言葉(の解釈)を無くしてしまった事ではないかと思っている。リインカネーション(転生輪廻)の本質性をこの言葉を比喩にして教えているのに、リインカネーションをない事にしてしまったのだ。このため、“イエスの救い”の意味は現世利益的なものに凋落してしまった。イエスの『救い』とは、この相対性世界からの離脱、或いは颯太性を超越を意味する御言葉なのに金儲けや、出世や、病気直しの意味になってしまったのだから大変だ。

仏陀も、イエスも金銭や、出世とは対極にある生き方をされた方ではないか。そのお二人に、未だに物質的価値を祈願するキリスト者。或いは、自分の協会ではそれができると宣伝する神父や牧師、オカシイと思わないかね。

キリストとは個人名ではなく、キリスト意識(悟り)を指す言葉なのだ。丁度、仏教の仏陀と同じで、その霊的ステージ到達したイエス故に、イエスキリストとなった訳だ。

神学は、イエスがなくなって500年も経ってからアウグスツヌスという神学者が体系化した哲学を参考にして、トマスアクイナスという13世紀頃の哲学者が体系化したスコラ哲学と考えても間違いではあるまい。

とは言え、キリスト教に限らず、仏教もイスラム教も・・、どの宗教も例外なく、宗祖の折角の教え、御言葉が後世の人達、特に後継者や、権力者によって都合よく変えられている事に変わりはない。それが極端か、どうかだけの違いでしかないのだ。そもそも、宗祖の教えを正しく受け継いで来たのであれば、あんなにいくつもの宗派に分派するはずないだろう。況してや、同じ宗祖を奉りながら戦争をして殺し合うというのだから、何をかいわんやと言う他ない。

ここでの本題とは違うが、世界の宗教指導者は、心から宗教と、宗教家としての自己の在り様を考えるべきなのだ。

神学以降のキリスト教が行ってきた歴史を振り返っただけで、この宗教の何処に性善説を主張する論拠があるのか判らない。

後程、論述したいと思ってはいるが(約束はできないが)、この点での結論を言うなら、物質世界は相対性を本質とする世界故に、人間社会は”性悪説を基本”とする世界なのだと、言っておく。もし、為政者がその反対の性善説でを前提にして政治(防衛、福祉、教育、司法、行政・・)を行えば、どうなると思うか。

詰まる所、学識経験者でありながら、自分達が生きているこの世界の本質性を全く理解できていないから、こういうオカシな事を平気でする事になるのだ。

マー、宗教をこき下ろすのはこの位にしておくが、決して、仏陀やイエス、お二人の生き様と、その御教えの素晴らしさを否定しているのではない事をお断りしておく。どうせ学ぶなら、本物を探すべきだろう。

 

 戦後教育がもたらした弊害

因みに、戦前までの日本の教育は『国家、そして人間の本質性』に対する洞察を元に(教育)理念を確立それを指針としていた事がお判りになると思う。先人は、学校(教師)とは学力だけでなく、”人間力”をも培う場であるべきと認識していたのだ。そういった観点から『教育勅語』を精査すると、言葉遣いなどは別にして、その内容は他に類を見ない高尚で、密度の高い教育指針である事が窺える。日教組の連中は、この内容が理解できないためだろう、反対を連呼している自分のオカシさを認識で気なのだろう。

否、彼ら以上にアメリカの言うがまま、世界に冠たるその教育理念を放棄したばかりか、70年経った今なお改めようとしない戦後の政治家や、官僚、識者の責任は大きいと言わざるを得ない。その戦後教育の結果が、特に21世紀に入って以降、上から下まで国の金を喰らおうとして恥じない国民、ゴミ屋敷、幼児の虐待、ストーカー、あおり運転・・等々オカシな社会を作ったという事ではないだろうか。

一言で言えば、今や殆どの国民が『今だけ、自分だけ、損得だけ』という生き方をする事に恥ずかしいと思わなくなった。つい、素十年前までの日本人にはなかったし精神性といえる。こうした結果、勉強はできても本質的には浅く、卑しく、薄っぺらな考え方しかできない人間ばかりを作ってしうことになったのが、戦後の学校教育なのだろう。

こんな人間性の持ち主が、難しい試験に合格したというだけで社会をリードする立場に座る訳だから、社会全体が可笑しな方向に向かい始めたとしても、不思議な事ではあないのだ。

それが端的に表れている人達として官僚、特に教育関係者も含めて、地方自治体の公務員、裁判官、検事などの司法関係者、また社会の木鐸を標榜するマスコミ関係者の体たらくを挙げざるを得ないのだ。恐らく、誰一人としてその自覚はないのだろうが・・。

中でも、人を裁くという謂わば、神の代行者とも言える司法関係者がオカシクなり始めたのだから、社会がゆがみ始めた流れに歯止めがなくなったと思わざるを得ない。昨今のオカシな判決、検事の在り様・・(弁護士は昔からそう)。そして、裁判員裁判制度などはその典型的な表れと思われる。一般の素人に神の代行をさせようとしている愚かさに気がついていない証拠と言える。人が、人を裁くという事は、本来誰もがすべきことではないのだ。しかし、それでは安全で、調和のある人間社会が構成、維持できないから、刑罰を前提にした法律を専門的に勉強し、難しい試験をクリアした人間をその任に当たらせているのだ。もし、司法専門家がその機能を果たせなくなったと言うのであれば、素人を宛てにするのではなく、司法試験、また制度の在り様を検討して、改革すべきなのだ。個人的には、人間の成熟度を測るテストを取り入れるべだと思う。尤も、これはエスタブリシュメント全般にすべき事だろう。

また、官僚制度全般に言える事だが、官僚制度ができて140年近く経っているのだから、制度疲労、歪みが出て来るのは当たり前なのだ。無論、二院制度にも言える事だ。特に、戦後の教育制度は、前述したように人間力を養成するための教育理念も体制も一掃してしまったため、余計にこうした歪みを作る要因になったのだろう。

然るに、『元を絶たねば駄目』という言葉があるにもかかわらず、それを言い出すと自分に風当たりが来るとでも計算するためだろう、実効性のを伴わない当たり障りのない策ばかり打とうとしているのが丸見えなのだ。小手先の弥縫策をいくら講じようとも傷口は広がるばかりなのだが、自己責任意識、自己犠牲的精神性という人間としての尊厳性を有した人材が居なくなったという事かも知れない。

『粗にして野だが卑ではない』と言った先輩官僚の言葉を噛みしめて欲しい。

こうした狂いと言うか、歪みに気が付く(洞察する)一助になればという事で、暫くは、相対性(物質)世界の本質性と、それがもたらす現象と言うか、必然的な事柄について考察してみることにした。

この事を理解するだけで、今まで自分が正しいと思って来た概念、或いは哲学が、少なからずそうではないらしいという事に気づくだろう。

 

相対性を構成する3大要素

以下、相対性世界が持つ本質性と、その本質性がもたらす現象と言うか、必然性について論証してみたい。

1その前に、相対性を構成している3大要素として①物質世界であること ②時間と空間に制約されている世界である事 ③如何なる事にも絶対はなく、また対極性、比較性を有している世界であるという3点を認識しておいてほしい。

そして、②の制約がある故に、人間は誰一人として真の自由を体現し得ないという事もが理解できると思う。世界一の金持ちであろうと、世界一の権力者、また帝王であろうと、それは厳然たる事実なのだ。

2相対性世界、即ち物質世界においては永遠の命、も若さも、幸福も、また永続する世界平和も実現する事はできないという事。

3 次いで、この本質性ある故に我々人間は、無意識の内に学ぶ事を強いられている訳だが、具体的に我々の人生の在り様にどう影響し、どういう体験をさせられるのか、という点に敷衍してみる事にする。

 次回以降、上記の3点について具体的に論証して行きたいと思う。