何が、今の日本(人)を作ったか

真剣に日本の将来、それは我が子や孫の為でもあるのだが・・、そして日本に生まれ、日本人として生きる自分(の人生)について真剣に考えている人が、今の日本(人)を観た時、どんな感じがする?

「そんな事はどうでも良いんだ。自分は金を儲けて、楽しく生きて行きたいだけ』というような輩は、このブログを開く事さえないのだろうが・・。

そう言えば先日も、あのゴーンの奥さんが日本から逃げ出したというゴーン関連の記事が紙面を賑していたが、日産の株主総会では、残っている当時の現経営陣に対しても株主から相当キツイ言葉が投げられたらしい。

当然のことだ。

それにしても、三菱自神戸製鋼・・等々、そして何よりも、あの3.11地震の折りの時の政府首脳、そして当時者である東京電力首脳の対応ぶりを観た時、「政、官だけかと思えば、財界よお前もか」と、嘆きたくなった日本人は私一人だけではないだろう。

そう思っていたところに、またあの櫻田氏が可笑しなことを言ってアウトだって。どれも、正に今の日本(人)を象徴しているような出来事と言う他ない。

本当にどの分野でも、人間として重みを感じられる人が居なくなったと思わないかね。

数年前亡くなられた私が日本で唯一尊敬していた人物、陸軍士官学校最後の卒業生だったその方は、終戦当時23歳くらいでしかなかったのに、「この戦争、敗戦の責任は軍人エリートであった自分にもある」と言って、終生全ての公職の要請を断られていた。戦後は、一から大手の民間企業に就職し、破綻寸前だったその企業を立て直したのであるが、手柄は全て他人のものとして顧みなかった。

私が、その事について「あれは貴方が周囲の反対を押し切り、ただ一人でなし遂げたと偉大な業績ではないですか。にもかかわらず、経済誌さえ全くあなたの功績に触れようとしないのはどういう事ですか」と憤慨すると、「私の生き様全ては、士官学校時代の教育によって育成されたものなんだ。手柄は部下に、失敗の責任は自分に、というのもその一つなんだよ」と仰ったのを聴いた時、改めて教育、特に人間教育の大切さを認識した事だった。

同時に、道徳を初め人間教育を全廃してしまった戦後の教育と、その影響そのままと言える今の日本人の精神性、人間性の凋落ぶりに意識が向かざるを得なかった。

因みに、戦後いつ頃から人間の尊厳性という精神性を忘れた世代が始まったのかを探ってみると、個人的見解だが、団塊の世代以降が特に顕著であると思われるのだ。つまり、人間教育を学校から廃止して以降に生まれた世代から始まっている訳だ。

マッカーサーが日本に上陸して真っ先に取り組んだ事は、「この貧しい島国の、小さな日本人がなぜあれほど強靭だったのか、その原因を解明する事だった」と言われている。その結果、日本人の精神的強靭さは日本の教育、特に人間教育によるものだということが判明したらしい。明治維新の志士たちなどはその典型と言える。

そのことが、戦後日本の『人間教育の全廃』という事につながったというのである。

占領軍の教育関連政策は教育理念の改悪から教育制度、学制に到るまで、広範に及んだ事はご承知の通りだ。私個人は、その中でも特に重要視すべきは、“人間教育の全廃”だったと確信している。未だに全廃のままなのだ。

“本末転倒”という言葉をご存じの方は少なくないだろうが、この言葉の本当の意味を知っている方は多くないのではないだろうか。

本とは“本学”つまり人間学を指す言葉に他ならない。対して“末学”とは経済、法律、政治、理工・・など、生活するための学問を指す言葉なのである。この事から、戦前の日本においては、人間にとって本当に重要な学問、学ぶべきは“人間学”即ち本学であって、一流大学に入るための学科、学問は全て末学だったという事が理解できると思う。物事の本質性と関係のないのに、ベストな事と間違って認識する考え方(精神性)を揶揄した言葉なのだ。正に、戦後~今に到る教育そのものを指す言葉であることが理解できるだろう。通常の学問がどうでも良いというのではなく、末学が如何に優秀であろうと、その秀才を人間学によって肉付けしなければ、上記のような本物の人物の育成にはつながらない、ということを戒めるための言葉でもあるのだ。

つまり、戦前の日本人、否明治以前もそういう世界観~価値観を持っていたことが、士農工商という身分制度からも窺える。金を稼ぐだけの身分は低きに置いていた訳だ。

戦後70余年以上経た今なお、我が国の政治家の皆さんは、最も大切な人間教育を放置したまま平気なのだが、その心情が理解できないのは私一人だけなのか。

『本学(人間教育)の空白が、戦後の日本、特に2000年以降の日本(人)を作った』と言っても過言ではあるまい。『今だけ、自分だけ、金(損得)だけ」という人間・・。

落ちてしまえばただの人と言われる政治家だから仕方のない面もあるのだが、明確な世界観、教育観、価値観を確立できていない故だろう、中国や、韓国と平和条約を結ぶに当たっても、最も重要な“反日教育”を止めるよう要求さえしないで功名心のまま、締結した結果が、今の両国の対日観につながっている訳だ。だから、私は他人から「戦後の総理の中で、誰が一番だと思う」と訊かれると、「最低は誰だ、と訊かれるなら答えもしようが、経済性しか追っかけなかった戦後の総理誰一人、合格点などやれるものか」と答えるしかないのだ。尤も、口を開けば「経済成長、福祉」と金だけを要求してきた我々国民にも、その責任がある事は否定できまい。

ゆとり教育”なるあの馬鹿げたものは、そうした戦後の教育理念の一端の顕れでしかないのだが、これが日本全国、全国民あらゆる分野に及んでいる訳だ。

国民は、『道徳教育などは、多様性の価値を一つにしてしまう間違った教育だ』などと、ノタマウ日教組なる団体が、未だに活動している愚かさを認識すべきなのだ。

70年余もの間、一度としてこうした事態を糾弾もしなければ、改革案を提示しようとさえしなかった学界、識者、マスコミ・・、全て同罪と言っても過言ではあるまい。

さて、益々過激さを増してくる戦後日本(人)に対する総括お楽しみに。