始に

2019 . 3. 28

以下申し上げる事を、私の個人的な感想に過ぎないと、一笑に付される方々も居るだろう。この事は、バブルが始まる1980年辺りから感じていた。特に、2000年頃を境にして、その思いが年ごとに強くなって来たと言える。

ひと言で言えば、日本人の在り様とでも言おうか。その頃は上手く表現できなかったというか、理解できなかったのだが、「何かオカシイ」、「私が認識している本来の日本人とは何かが違う」、「上辺の穏便さ、綺麗ごとが寒々しく感じるくらい、何かしっくりこない感じがする」のである。また、その頃からそういう事件が目についたり、耳に入るようになったという事でもある。

無論、昔から犯罪者は無論、不道徳者、社会不適格者といった人たちは沢山居た。ただ、貧しさや差別という出生とか、無責任な両親、家庭環境・・など、殆どが何か納得できるような事情、背景があってのことだったというのが、現代と違う所だ。

ところが、ここで言う人たちは出生は無論、学歴、経歴など申し分のない身の上でありながら『何故?』というような不祥事や、破廉恥な事をやっている。就中、その心根には判らなければ良い、バレてもできるだけとぼけて、誤魔化し、何とか逃げる、そういう自分を恥ずかしいと思っていないらしい事が窺えるのである。

この事が、一番しっくりしないというか、落ち着かない思いをするところなのだ。

色々な見方はあるだろうが戦前、少なくとも1960年代くらいまでのいわゆるエスタブリッシュメントと言われる人達の殆どは、生き様の根本に”恥を恐れる”、”人間として如何に在るべきか”という事を置いていたように思われるのだが・・。

それが見られなくなったのが1980年頃、特に2000年に入ってから顕著になって来たように思われる。

一連の司法も含めて高級官僚の不祥事、超一流企業の経営の在り方、マスコミ関係者の報道姿勢・・、また、そうした目に見える事よりも、彼らは自分の使命を自覚しているのだろうか、という根本的在り様、姿勢に疑問(懸念)を感じて仕方ないのだ。ノーブレスオブリージェという言葉が死語になったと感じるのは私だけだろうか。

「これは一体どういう事なのだ。日本はどうなるのだろう」と、いう思いが強烈に湧き上がって来た、40年ほど前の事を昨日の事ように覚えている。

その日以来、「何が原因なのだろうか」、「解決するために、日本は何をすべきなのか」といった思いが、いつも頭の片隅にあったようだ。

ただ、そうした思いが湧き出ても、意識から外していた。自分などよりもっとそうした事に関する見識や、学識を持っている人が沢山居る筈だ、という思いが強かったからと言える。

あれから、半世紀を経ようとしているが、そうした思いというか、憂国の思いが頭から離れなかったというのも不思議な事ではある。

一方では、この情況に「警鐘を打ち鳴らす識者」が、誰一人出て来ないのはどういう訳だ、という思いが強くなるばかりだった。TVで色々なコメンテイターを見る度、十分な経歴を持つ人がこんなに居るのに何故、綺麗ごとばかりで終わらせて、突っ込んだ事を言わないのかと思ったものだった。

そこうした折り、ブログなるものを知り、何か書いてみようと決心した次第。

こういう訳だから、記事の内容に関しては読まれた人がどう評価しようが御自由に・・だが、反論は一切受け付けない、ことをお断りしておく。

今のところ、週1回ていどの配信を考えているので、楽しみ(?)にしておいていただきたい。

第一回の来週は、『教育』を考えてみたい。ここで申し上げている日本人の内面的凋落をもたらした根本原因は、戦後の教育にあると考えているからに他ならない。