国家としての本質的欠陥を考察するⅡ

戦前は、一流の先生になるためには教職者を養成するための師範学校を卒業する必要があった。現在の筑波大学などはそのための大学、高等師範学校の1つで、東大、京大に次ぐ高い評価をされていた。教師とは、子供たちを学問分野で向上させるだけでなく、一流の人間になるべく人間教育をし得る存在であり、そのためのプロフェッショナルを養成するための学校だったのだ。だから、戦後のデモシカ先生などとは、根本的に教育者としての資質が違っていた訳だ。教職者は社会的のエリートであり、「先生」というだけで尊敬されくらいの権威があった。トップクラスの師範学校を卒業してなくとも、戦前の教育を受けた人たちが教職者として、教育現場に立っていた60年ほど前までは、教師が生徒を厳しく叱ったり、ビンタを喰らわせたからと言って父兄に怒鳴り込まれたり、教育委員会から叱責を受ける事などなかったのである。

だからこそ、先生たちの多くは誇りと使命感を持って教育に取り組んだし、父兄も感謝と畏敬の念を持って接するのが当たり前のことだった。自然に、子供達も親よりも尊敬するようになる訳だ。昭和20年代前半に生まれた人たちが、小中学校時代に教えられた先生の殆どは、大正時代生まれの人達だったから体罰など当たり前のことで、むしろ、自分の両親が、担当の先生に「もっと叱ってください」などと言っているのを、複雑な思いで聴いていた事を覚えている人も居るのではないだろうか。 

翻って、今の日本はどうだ。

マッカーサーが占領軍のトップとして日本に来た時、先ず取り組んだ事は「貧乏な島国の小柄な日本人が、心身共にどうしてあれほどまで強かったのか』という原因を調査、究明する事だった。調査の結果、全ては教育、人間教育に在るという結論を得たという。それは、究極的には潔さと、自己犠牲的精神性というものだったらしい。

論語朱子学など儒教の教本、その教えを日本流に咀嚼し、これに葉隠などの日本の古典を加味し、日本人共通の人間養成のための指針(本学=人間学)として確立している事が解明されたという事だ。

本学とは、如何にに生きるべきかを学ぶ人間学であり、対して法学、経済学、理学・・等の学問は、生計を立てるための末学として区別していた訳だ。今や、『本末転倒』という言葉は、ここに由来している事を知っている日本人も少なくなってしまった。

占領軍は日本から『本学』を残らず一掃し、二度と強い日本人を養成させることがない末学だけの教育を押し付け、今日にいたっているた訳だ。

その影響は一般大衆だけでなく、エスタブリッシュメントにまで及んでいる。日本を悪化させることにしかならないゆとり教育働き方改革などいった馬鹿げた事を得意げに提唱している一例を見ても判るだろう。

ネットのゲームに嵌まり込んで、まともな人生を送れなくなっている青少年が何十万人も居るこの現実。今や、学校~教師だけでなく家庭~両親を再教育しないとどうにもならなくなっているのだ。

労働人口が足らないのではなく、多くの若者が働かなくなっている現実を何故見ない振りをしているのか。まともな先生や親が居たとしても、社会全体が体罰を罪悪視する風潮にしてしまったため、20歳を過ぎても親の財産、年金をあてにする連中を正すすべがないのである。隣国にしてみたら「日本、放っておけば潰れるよ」という所だろう。

『人間教育不在』の恐ろしさが、解かるのではないだろうか。

個人的には、占領軍が新憲法にしてもそうだが、こういう政策を採った事はうなずける。しかし、70年間もの間政治家の誰一人、識者の誰一人、教職者の誰一人、日本人による日本人のための教育理念と、憲法を確立すべきだと提唱しなかった事に、アキレル他ないのだ。日本人を金だけ求める乞食根性の持ち主にして、未だに経済成長と、福祉しか言わない。ただ、これも日本国民の多くが政治家に対して、人間としての在り様よりも、兎に角金をばら撒いてくれ、と要求してきたからでもある。

占領軍に強いられるまま、明確な教育理念の無い中で、質を落とした先生のもとで立派な人間が育つはずないのだ。こう言うと『立派な人間でなんだ』などと、チャチを入れる輩が居ると思う。良いですか。立派な人間とは『人間にとって最も大切な事は、人間としての尊厳性を留意しながら生きる人間に他ならない。即ち、”自己犠牲的精神性”と”自己責任意識”に則って生きる人間』に他ならない。つい5~60年前までは、意味のない施しを受けなかった日本人の方が多かったくらいなのだ。今や、金があるくせに貰えるものは何でも貰う、という卑しい人間ばかりになってしまった。

尊厳性を指針にした人生から生まれる”徳性”という精神性に加えて、勉学(末学)、体育をレベル以上に成し遂げた人間こそが、真のエリートに他ならない。戦後の教育は、この真のエリートを養成できない形にしてしまった事に気が付くだろう。

但し、戦前の教育にも大きな欠点があった事を指摘しておく。

これは、欧米の植民地にされる事を恐れた明治維新政府が、富国強兵を最重要政策と置いたことによって、教育理念の根本に、国是に沿って一糸乱れず(=国家目標の遂行)学び、考え、生きる国民となるように育てるという目的があったためと言える。戦時下を考えれば判るだろう。画一化する事に価値を置いた国家戦略と言える。

ただ奇妙な事に、この欠点だけは様々な分野で今もなお続いている。恐らく、体制側にとってはその方が国民を管理しやすいからではないかと思う。

しかし、それがために日本人全体が、クリエイティブな能力を養成できず、損なわれて来た事のであるが、まさか支政治家や官僚が気が付かなかったはずないだろうに。

お判りだろうか、日本の欠陥とは1教育理念が確立されていない事、2民族のバックボーン、基盤である憲法が確立できていない事の2点に起因しているという事が。

話は変わるが、ずいぶん前から金儲けなど物質的価値を得るために努力する事を成功哲学などと称して、講演会やセミナー等が開かれているのをご存じだと思う。高い料金を取って、そういうセミナーを主催している人達に訊きたい。成功とは何のか、努力とは何か、物質的価値を手にする事が人生の成功なのか・・と。

次回は、今なお問題が続いている”虐め”について話してみるつもりだ。

 

国家としての本質的欠陥を考察するⅠ

一人の人間が(家族も含めてのことだが)人生を真剣に考えるに際しては、先ず今の日本はどういう国なのかという事、次いでその国でどういう生き方を選択すべきかという事・・、無論他国、他人のライフスタイルや、生きがいといったものを参考する事もあるし、歴史を紐解く場合もあるだろうが、どちらにしてもこの2点にポイントを置いて自分の生き方を考えるんだろうな、という事は納得できると思う。己が足元の情況を観察~熟慮して、将来を構想するという事に他ならない。

そうした事柄を考察した上で結局は、日本人として生きる上で、最も重要な前提となるのが教育、如何なる教育を受けられるかという所に帰結する事も理解できると思う。

つまり、自分の人生を考える場合は先ず、日本の教育理念~教育政策~教育体制がどいう情況にあるのかという事を洞察する必要があるという事なのだ。この事は生徒に関するだけでなく、教師の資質~養成という面も含めてのテーマと言える。レベルの低い教師の下で、レベルの高い生徒が育成されるはずないのは言うまでもない事だろう。

但し、現下の日本では、ここで言う教師としての質的レベルとは、具体的にどういう事なのかということを、改めて認識しておきたい。何故なら、戦後の教育を受けた日本人の殆どは、そう言いたくなるくらい人間に対する識別智が凋落しているからに他ならない。もし、「冗談じゃない、馬鹿にするな」と言う人が居れば訊きたい。なぜ、占領軍指定の教育政策を70年間もの間、改訂さえしようとしないまま放置して来たのかと。

詳細については、後ほど供述して行くつもりだが、一例を挙げれば、未だに『日教組』などという如何にも教職員組合を装って、日本人の精神性を凋落させたばかりか、日本の伝統的精神文化をも荒廃させるだけでしかなかった組織を未だに残し、受け入れているのか、考えて欲しい。

あなたの子女を、日教組の強い学校に我が子の将来の為と確信して入学させたいだろうか。日教組の組合員さえ、組み合い教師の居ない学校に入れたがると言うのに。

こうした観点に立って戦後の日本の教育を俯瞰する時、我が国の政治家や、文科省官僚、識者、またマスコミ・・は、国民の教育をどう考え、どのような展望を持って取り組んで来たのか、という事を考えざるを得ないのだ。

結論を言うなら、残念というか、憤懣やるかたないと言う他ない。戦後のエスタブリッシュメントと言われる人達は誰一人として、日本人の教育については何もやろうとしなかったという他ない。というより、日本人をして乞食根性の持ち主に育てる事しかして来なかったと、言って過言ではないだろう。

これは何も殊更に大げさに言っている事ではない。

世界でも有数の経済的に裕福国家になった後でさえ、今尚、経済成長~所得増、福祉、医療・・が、政治家の宣伝文句なのだから。ほんの半世紀前くらいまでは、貧しかった日本人の多くは、何もしないで国や他人から金を貰う事を潔しとしなかったのだ。それが今や、十分な資産がありながら年金だろうが、保険だろうが・・、貰えるものは何でも貰います、と言って恥じようとしなくなったのだ。

『全ては教育にある』とする私の見方は間違っているだろうか?

連休明けにはまた宜しく。

 

 

 

占領機関であるGHQは日本の憲法、政治、経済、社会制度、教育・・それらを支えた日本人の精神的、文化的分野まで踏み込んで日本人の背骨を抜き取るためとも言うべき大変革を行った結果なのだ。

当該国家、国民が存在するための基盤的指針である憲法にしても、GHQ=占領軍の作った憲法を未だに平和憲法などと言って奉っている。同じ敗戦国であるドイツやイタリーを観たらどうかと言いたい。

ところが、日本人の中には未だに、「押し付けられた憲法などと、とんでもない、あの憲法は日本人の手で作られた平和憲法のです』なんてことを言うのが居る。そもそも、国際法においはて占領下における憲法の設立は認められない、ということになっているではいか。ドイツは淡々とその通りに行い、占領解放後に自分たちの手で自国の憲法を設立したわけだ。

ともあれ、自国の防衛を他人頼みにしたいるばかりか、国家運営の基盤であり、国民が生きて行くための指針である憲法を他国民に創られたまま、70年間放置したままで来たこの国が真の独立国と評価される訳ないのである。

お判りだろうか、教育を考えるに当たっても、先ず基盤的指針である憲法を確立する必要があるのだ。日本人が日本民族のための指針、基盤哲学である憲法を設立するためには、国民共通の国家観が確立されることが前提である事も理解できると思う。さらにその前に、全日本人が一様に受け入れられる、日本独自の歴史観が確立される事が不可欠となる。歴史観と言うと、曲学阿世の徒の中には、時系列が違うとか、史実はこうではないか・・等と、口をはさむのが居るが、歴史とはその国の壮大な民族ストーリーなのだ。日本人の精神性、国民としての自覚が醸成察るものでなければ何の価値もないと言うこと認識する必要がある。

世界に関たる古代史、日本民族の独自性、精神性を秘めた史書である古事記日本書紀を何故教科書から消し去ったのか。あの物語を読みこなすだけの文部官僚、教職者が居なくなったという事かも知れない。

就中、日本のように、国民に近代史を全く教えない国が他にあったら教えて欲しい。

因みに、国際競争に勝ち抜き、世界から尊敬を集められるような日本人を育成するための重要な使命を持つ監督官庁、”文科省”は全省庁の中でどういう位置づけに在るのだろうか。

インドでは30人ほど居る大臣の中で、日本の文科省に当たる大臣は、5人しか居ないキャビネットスター(副総理格)の1人に位置づけられている事をご存じだろうか。そのくらい、国民を教育する事は重要な政策だと共通認識している証拠に他ならない。

振り返って、日本は・・。

人材を育成するための監督委官庁である文科省は3流官庁、大臣は3流大臣という扱いである事はご存じだと思う。

私だけかも知れないが、戦後の総理大臣誰一人、総理に値する人物など皆無だったと確信している。彼らの政策は『今だけ、自分だけ、金だけ』という戦前とは対極に在る日本人を作っただけではないか。

戦後の政治家や識者が、教育というものをどのように認識して来たか証明していると言えるではないか。

 2019.4.26

 

エリートを育てない日本の教育理念と教育体制

本当に、マッカーサーはすごい土産を日本に残してくれたものだと、驚く以上にあきれる他ない。土産とは、明治維新以後に創成されたあの世界に関たる教育の在り様を一転、骨抜きの日本人を育成するための教育理念、教育体制に変換させてしまった事に対する言葉に他ならない。しかも、それら全ては日本人が自主的に変革したかのように見せ、且つ未だに続けさせているのだからこれを何と言うべきだろうか。

あの虚偽に塗れた東京裁判にしろ、アメリカ以外の誰が作ったのかと言いたくなる憲法・・。良いですか。日本民族の基盤とも言うべき憲法と、教育理念を改悪し、70年経った今もそれを続けさせているこの国に恐怖を感じないとしたらおかしいのだ。

日米地位協定などを観ただけでも、アメリカの本音は丸見えなのだ。

尤も、それを今だに放置している我が国の政治家や、官僚の外交力、識者や、マスコミ人・・の見識にこそ責任があるのではないかと、言われれば反論の仕様もないのだが。就中、これを世界に類例のない平和憲法だとか、この憲法は日本人が作ったなどと言い張る連中が少なくないのだから『愚かさもここに極めり」と慨嘆する他ない。

ハッキリ言えばロシアが怖い、中国が怖いなどと言っているが、世界で本当に怖い国はそう思わせない点も含めて、アメリカなんだよ。

あの田中角栄さえ、エネルギーインディペンデントを本気でやろうとしたため、突然引き起こされたロッキード事件によって政界から引きずり降ろされてしまったのだ。尤も、それが判っていながら首相たる田中角栄を逮捕し、有罪にした当時の首相、法務大臣くらい愚かで、恥ずべき日本人は居ないのだが。

ともあれ、あの事件以降、本気で日本を独立させようという気概を持った政治家は居なくなってしまった訳だ。

そもそも今では、日本が太平洋戦争に突入せざるを得なくなる情況が、アメリカの手で巧妙に仕掛けられたという事は明白になっているのだ。

確かに、明治維新もそうだが日清、日露、第一大戦と運の良さに助けられて、維新以降連戦連勝を続けた日本(軍)首脳は、実力と勘違いして、良い気になり過ぎた事が、アメリカそしてうさせたという事は否定できないだろう。アメリカの怖い所は、相手の行動が限界を超えた時点で、あらゆる陰謀を張り巡らせ、この場合は開戦に仕向け、徹底的に叩いてしまう国だという事なのだ。言うまでもなく、相手という場合は白人と、有色人種における違いはあると思う。表には出さないが・・。

つまり、彼らは同国人同士でも、基本的に生きる上で〝本音で・・"という事は、皆無と思っておいて間違いないと思う。むしろ、本音で生きているような人間は、愚か者としか評価しないのだろう。歴史が浅く、多民族国家ゆえにそうした国民性が醸成されたのだろう。

ただ、強弱の違いはあっても欧米各国は、有色人種に対してはこのような政策を採って来たのは歴史的にも明らかな事と言える。オリンピックの突然のルール改正などはその典型と言えるだろう。悪びれるでころか、欧米のどの国からもこウした事に対する非難の言葉はないのだ。一時的、限定的なケースは別にして、有色人種が白人を席巻してしまうような事態が続く事は許さない、という本質性を持っているのだろう。

また、彼らは「強い事が正義」という世界観を基盤にしているという本質性も忘れてはなるまい。強いという事は、肉体的強靭さも含めて、富、権力、地位、名誉・・等の物質的価値を他よりも多く手にしている、できるという事でもある。

こうした哲学、つまり世界観や、価値観を良いとか、悪いとか評価しても意味のない事と言える。多かれ少なかれ、我々も事あるごとに他よりも優越的立場に付こうとして、それを人生目標に、或いは生きがいのようにしながら日々を送っている事が現実なのだから。単一民族で、且つ他国に占領さえされた事もなければ、長年近隣諸国の国民とさえ深い付き合いさえして来なかった日本人は、こうしたアメリカ人の本質性を承知した上で、付き合う必要があるという事なのだ。特に、政治家や官僚は、留学の経験くらいでは、完全にものに出来ていないという事を認識しておくべきだろう。

詰まる所、我々が、例えば法華経の十界で言う所(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人間、天界、声聞、縁覚、菩薩、如来)の人間界、つまり大いに下に行く可能性を持つ霊性で居る以上、日々折々、餓鬼界や修羅界のレベルに落ち込んだりしながら、たまには声聞界に昇ったりしながら生きている訳だ。

人間とは何時でも獣性に戻れる精神性を持った生き物なのだという事を自覚する事が、その境涯から抜け出すための第一歩とは言えるのだろうが。

話が少しズレてしまったが、来週は戻すつもり。

 

何が、今の日本(人)を作ったか

真剣に日本の将来、それは我が子や孫の為でもあるのだが・・、そして日本に生まれ、日本人として生きる自分(の人生)について真剣に考えている人が、今の日本(人)を観た時、どんな感じがする?

「そんな事はどうでも良いんだ。自分は金を儲けて、楽しく生きて行きたいだけ』というような輩は、このブログを開く事さえないのだろうが・・。

そう言えば先日も、あのゴーンの奥さんが日本から逃げ出したというゴーン関連の記事が紙面を賑していたが、日産の株主総会では、残っている当時の現経営陣に対しても株主から相当キツイ言葉が投げられたらしい。

当然のことだ。

それにしても、三菱自神戸製鋼・・等々、そして何よりも、あの3.11地震の折りの時の政府首脳、そして当時者である東京電力首脳の対応ぶりを観た時、「政、官だけかと思えば、財界よお前もか」と、嘆きたくなった日本人は私一人だけではないだろう。

そう思っていたところに、またあの櫻田氏が可笑しなことを言ってアウトだって。どれも、正に今の日本(人)を象徴しているような出来事と言う他ない。

本当にどの分野でも、人間として重みを感じられる人が居なくなったと思わないかね。

数年前亡くなられた私が日本で唯一尊敬していた人物、陸軍士官学校最後の卒業生だったその方は、終戦当時23歳くらいでしかなかったのに、「この戦争、敗戦の責任は軍人エリートであった自分にもある」と言って、終生全ての公職の要請を断られていた。戦後は、一から大手の民間企業に就職し、破綻寸前だったその企業を立て直したのであるが、手柄は全て他人のものとして顧みなかった。

私が、その事について「あれは貴方が周囲の反対を押し切り、ただ一人でなし遂げたと偉大な業績ではないですか。にもかかわらず、経済誌さえ全くあなたの功績に触れようとしないのはどういう事ですか」と憤慨すると、「私の生き様全ては、士官学校時代の教育によって育成されたものなんだ。手柄は部下に、失敗の責任は自分に、というのもその一つなんだよ」と仰ったのを聴いた時、改めて教育、特に人間教育の大切さを認識した事だった。

同時に、道徳を初め人間教育を全廃してしまった戦後の教育と、その影響そのままと言える今の日本人の精神性、人間性の凋落ぶりに意識が向かざるを得なかった。

因みに、戦後いつ頃から人間の尊厳性という精神性を忘れた世代が始まったのかを探ってみると、個人的見解だが、団塊の世代以降が特に顕著であると思われるのだ。つまり、人間教育を学校から廃止して以降に生まれた世代から始まっている訳だ。

マッカーサーが日本に上陸して真っ先に取り組んだ事は、「この貧しい島国の、小さな日本人がなぜあれほど強靭だったのか、その原因を解明する事だった」と言われている。その結果、日本人の精神的強靭さは日本の教育、特に人間教育によるものだということが判明したらしい。明治維新の志士たちなどはその典型と言える。

そのことが、戦後日本の『人間教育の全廃』という事につながったというのである。

占領軍の教育関連政策は教育理念の改悪から教育制度、学制に到るまで、広範に及んだ事はご承知の通りだ。私個人は、その中でも特に重要視すべきは、“人間教育の全廃”だったと確信している。未だに全廃のままなのだ。

“本末転倒”という言葉をご存じの方は少なくないだろうが、この言葉の本当の意味を知っている方は多くないのではないだろうか。

本とは“本学”つまり人間学を指す言葉に他ならない。対して“末学”とは経済、法律、政治、理工・・など、生活するための学問を指す言葉なのである。この事から、戦前の日本においては、人間にとって本当に重要な学問、学ぶべきは“人間学”即ち本学であって、一流大学に入るための学科、学問は全て末学だったという事が理解できると思う。物事の本質性と関係のないのに、ベストな事と間違って認識する考え方(精神性)を揶揄した言葉なのだ。正に、戦後~今に到る教育そのものを指す言葉であることが理解できるだろう。通常の学問がどうでも良いというのではなく、末学が如何に優秀であろうと、その秀才を人間学によって肉付けしなければ、上記のような本物の人物の育成にはつながらない、ということを戒めるための言葉でもあるのだ。

つまり、戦前の日本人、否明治以前もそういう世界観~価値観を持っていたことが、士農工商という身分制度からも窺える。金を稼ぐだけの身分は低きに置いていた訳だ。

戦後70余年以上経た今なお、我が国の政治家の皆さんは、最も大切な人間教育を放置したまま平気なのだが、その心情が理解できないのは私一人だけなのか。

『本学(人間教育)の空白が、戦後の日本、特に2000年以降の日本(人)を作った』と言っても過言ではあるまい。『今だけ、自分だけ、金(損得)だけ」という人間・・。

落ちてしまえばただの人と言われる政治家だから仕方のない面もあるのだが、明確な世界観、教育観、価値観を確立できていない故だろう、中国や、韓国と平和条約を結ぶに当たっても、最も重要な“反日教育”を止めるよう要求さえしないで功名心のまま、締結した結果が、今の両国の対日観につながっている訳だ。だから、私は他人から「戦後の総理の中で、誰が一番だと思う」と訊かれると、「最低は誰だ、と訊かれるなら答えもしようが、経済性しか追っかけなかった戦後の総理誰一人、合格点などやれるものか」と答えるしかないのだ。尤も、口を開けば「経済成長、福祉」と金だけを要求してきた我々国民にも、その責任がある事は否定できまい。

ゆとり教育”なるあの馬鹿げたものは、そうした戦後の教育理念の一端の顕れでしかないのだが、これが日本全国、全国民あらゆる分野に及んでいる訳だ。

国民は、『道徳教育などは、多様性の価値を一つにしてしまう間違った教育だ』などと、ノタマウ日教組なる団体が、未だに活動している愚かさを認識すべきなのだ。

70年余もの間、一度としてこうした事態を糾弾もしなければ、改革案を提示しようとさえしなかった学界、識者、マスコミ・・、全て同罪と言っても過言ではあるまい。

さて、益々過激さを増してくる戦後日本(人)に対する総括お楽しみに。

平成日本と日本人の実態

1980年辺りから目につくようになり、2000年に入るとそうした事が珍しくもなくなってしまったことがある。一言で言うなら、古くからの日本人には考えられなかった社会現象(人間の言葉、行動)が顕著になって来たという事。

昔の日本人がどうだったと言うのか、と思われただろうか。

それは人間としての在り様が戦後、特に1970年辺りからコロッと変わったという事なのである。それまでの多くの日本人は、人間とは“人間学”を指針にして生きるべきだ、と考えていた。つまり、潔さとか、恥を知るとか、言い訳しないとか、弱い者虐めをしない、強者を挫くべしとか、親孝行をすべしとか、年長者、師を敬う・・という事を常に頭の何処かに置いて生きていたのである。今は言葉として知ってはいても、余り意識をしない指針(哲学)と言えるだろう。

今は?  判らなければ儲けもの。他人がどう思おうが法律さえクリアしているならOK・・といった生き様が幅を利かせているのではないだろうか。

この指針(=生き様)の根底には“自己責任意識”と、“自己犠牲的精神”の2つの精神性がある訳だ。

新聞やTVで目にしたそうした事例を思い出すままに挙げてみると、そのⅰ教師の地位低下(質的低下も含めて)と、父兄の人間性の凋落が一番気になるのだ。ⅱ、親孝行など考えもしなければ、大人を怖いとも思わない子供が増えている事。ⅲ、我が子を叩けないどころか、遠慮がちという父親が増えている事。私には、息子を殴ったことの無い父親が少なくない、という事を理解できない。人間とは大人でさえ愚かな生きもなのだ。特に子供は動物と変わらない精神性に在るのだ。したり顔して「話せばわかる」などと言う人間は夢想家か、余程傲慢な人間だろうと思っている。子供頃から話せばわかるような人間ばかりなら、今の日本~世界をどう考えるのかと訊きたい。

だから、教育、特に人間教育が大切なんだ。

ⅳ、年長者に対する畏敬の念の消失。ⅴ、一流大学を卒業した一流企業の役員、経営者が、「何故、こんなすぐわかるような不祥事を・・」と言いたくなるような稚拙極まりない事を起こしている事。ⅵ、他国に比べて、日本人男性の雰囲気が全体的に弱々しくなった事。俳優にしても、男臭いのが居なくなった気がするのだ。一方、女性を見ると、いずれ自分は子供を産み、母親としてチャンとした人間に育てる使命を持っていると自覚している女性が少なくなったように思われるのだ。更に言うなら、子供を持つ母親が、母親として如何に在るべきかという自覚を持っている女性も少なくなった気がする。ⅶ、殆どの日本人が個より全体を優先しない、つまり全体よりも個が優先すると本気で思っているらしい事。ⅷ、自分なりにせよ歴史観、国家観を確立している日本人が殆ど居ないらしい事。これは国(政治家)が戦後、そういう教育を破棄してしまったのだから仕方ない面もあるのだが。

すぐに頭に浮かんで来たものだけでもこの位あるのだから、精査すればこの何倍もあるのだろう。

こうした情況から言える事は、戦後の日本人の多くは大義という観点に立って物事を考えたり、生きようとしなくなったらしいという事。当然、自己責任意識、自己犠牲的精神性といった人生哲学を確立している日本人も稀という以上に稀な事だろう。

反面、『今だけ、自分だけ、金(得か損か)だけ』という生き方を賢い生き方だと考えている日本人が増えたという事なのだ。

しかし、そんな賢さは所詮、その上にズルか、ワルが付く狭くて、小賢しいものでしかなく、社会や人々に悪影響を及ぼしても、貢献する事など全くない生き様でしかないのだ。ここには、人間としての誇りの欠片もない事が窺えるだろう。

想像してみて欲しい。日本中がこんな人間ばかりになった時のことを。

人それぞれ、色々な考え方(価値観、世界観、人生観)はあるだろうが、要するに70余年に渡って、経済的効率だけを追いかけた日本人が築き上げた国の姿が、これという事なのだ。

国家の基盤である憲法を他国に創らせたまま、また国防を他国に委ね、ひたすら金を追い掛けて来たのだから、そりゃ楽だったと思うよ。

かって、運輸省事務次官から国鉄総裁を拝命した石田礼助氏が、自分を紹介するに当たって、『粗にして野だが卑ではない』と仰った事をご記憶の方も居ると思う。そういう人物があらゆる分野において消えつつある、否消えてしまったのが21世紀の日本なのだ。確かに粗ではなく、見た目は上品で知的な人間が増えたように見えるが、本質は臆病で、小ズルく、小賢しい要領のいい人間が大手を振って歩く国になったという事ではないのだろうか。

留学を志す若者、起業を志す若者が急減しているという事実からもこの事が窺えるだろう。今の日本は知らない世界、新しい分野に踏み込んでいく勇気も、見識もない若者ばかりになったという事に他ならない。

来週以降、その原因、できれば対処法についても考察してみたいと思っている。

文中、見落としている点や、勘違いしている事もあると思うが、本質は間違わないようにするつもりなのでご寛恕のほどよろしくお願い申し上げる次第。

 

2019. 4. 5

 

 

 

 

始に

2019 . 3. 28

以下申し上げる事を、私の個人的な感想に過ぎないと、一笑に付される方々も居るだろう。この事は、バブルが始まる1980年辺りから感じていた。特に、2000年頃を境にして、その思いが年ごとに強くなって来たと言える。

ひと言で言えば、日本人の在り様とでも言おうか。その頃は上手く表現できなかったというか、理解できなかったのだが、「何かオカシイ」、「私が認識している本来の日本人とは何かが違う」、「上辺の穏便さ、綺麗ごとが寒々しく感じるくらい、何かしっくりこない感じがする」のである。また、その頃からそういう事件が目についたり、耳に入るようになったという事でもある。

無論、昔から犯罪者は無論、不道徳者、社会不適格者といった人たちは沢山居た。ただ、貧しさや差別という出生とか、無責任な両親、家庭環境・・など、殆どが何か納得できるような事情、背景があってのことだったというのが、現代と違う所だ。

ところが、ここで言う人たちは出生は無論、学歴、経歴など申し分のない身の上でありながら『何故?』というような不祥事や、破廉恥な事をやっている。就中、その心根には判らなければ良い、バレてもできるだけとぼけて、誤魔化し、何とか逃げる、そういう自分を恥ずかしいと思っていないらしい事が窺えるのである。

この事が、一番しっくりしないというか、落ち着かない思いをするところなのだ。

色々な見方はあるだろうが戦前、少なくとも1960年代くらいまでのいわゆるエスタブリッシュメントと言われる人達の殆どは、生き様の根本に”恥を恐れる”、”人間として如何に在るべきか”という事を置いていたように思われるのだが・・。

それが見られなくなったのが1980年頃、特に2000年に入ってから顕著になって来たように思われる。

一連の司法も含めて高級官僚の不祥事、超一流企業の経営の在り方、マスコミ関係者の報道姿勢・・、また、そうした目に見える事よりも、彼らは自分の使命を自覚しているのだろうか、という根本的在り様、姿勢に疑問(懸念)を感じて仕方ないのだ。ノーブレスオブリージェという言葉が死語になったと感じるのは私だけだろうか。

「これは一体どういう事なのだ。日本はどうなるのだろう」と、いう思いが強烈に湧き上がって来た、40年ほど前の事を昨日の事ように覚えている。

その日以来、「何が原因なのだろうか」、「解決するために、日本は何をすべきなのか」といった思いが、いつも頭の片隅にあったようだ。

ただ、そうした思いが湧き出ても、意識から外していた。自分などよりもっとそうした事に関する見識や、学識を持っている人が沢山居る筈だ、という思いが強かったからと言える。

あれから、半世紀を経ようとしているが、そうした思いというか、憂国の思いが頭から離れなかったというのも不思議な事ではある。

一方では、この情況に「警鐘を打ち鳴らす識者」が、誰一人出て来ないのはどういう訳だ、という思いが強くなるばかりだった。TVで色々なコメンテイターを見る度、十分な経歴を持つ人がこんなに居るのに何故、綺麗ごとばかりで終わらせて、突っ込んだ事を言わないのかと思ったものだった。

そこうした折り、ブログなるものを知り、何か書いてみようと決心した次第。

こういう訳だから、記事の内容に関しては読まれた人がどう評価しようが御自由に・・だが、反論は一切受け付けない、ことをお断りしておく。

今のところ、週1回ていどの配信を考えているので、楽しみ(?)にしておいていただきたい。

第一回の来週は、『教育』を考えてみたい。ここで申し上げている日本人の内面的凋落をもたらした根本原因は、戦後の教育にあると考えているからに他ならない。